食べていくのも大変よ
食料問題については、楽観視できないと思っています。昨年、中国による食糧の爆買いが話題になりました。
しかし、これはただの爆買いではありません。食料というのは、私たちの生命に直結するものです。仮に、それが買い占められるとしたら、その影響には十分注意を払っておく必要があります。
唐突かもしれませんが、今は戦争の真っ最中であるという認識が重要です。人によっては、「何言ってるんだ?」と思われるかもしれません。しかし、どうしようもないです。そう思うくらいが、ちょうどいいと思います。
こんな記事がありました。
戦車が走り回って、ミサイルが飛び交うのが戦争だなんて時代ではありません。
私たちの生活が、どのように成り立っているのかを真剣に考え、その生活を脅かすもの、その裏にあるものを真面目に考えなければならず、そこに潜む戦争の存在を感じ取る必要があります。当然、食料のことも、きちんと考えなければいけません。
記事の中で、日本がこの食料争奪戦で負け続けている根本的な原因は、円安だと指摘されています。
それならそれで、為替レートが変わればいいだけなのかもしれません。しかし、そうなのかという気もします。
もっと構造的な問題があるのではないでしょうか。そして、その構造のなかには、問題のあるキーマンが、多く潜んでいるのではないかと疑いたくなります。
先の大戦に関連して、林千勝先生が「身内に潜む問題」について指摘をされています。
国家戦略として、対米戦争は避けることを正式決定していたにもかかわらず、それに反して、対米戦争に引きずり込もうとした人物が、日本側に存在していたという指摘です。もちろんそれは、その人物の一存で進められたわけではありません。曲がりなりにも国同士の戦争ですから、いろいろな政治力学が働いています。
このように兵器を使った目に見える、分かりやすい戦争であっても、内側から崩しにかかる人がいると大変に厄介なことになるのです。
今日のように兵器でドンパチしない、より「分かりにくい戦争」になってしまったら、その分、戦争の構造はより複雑化し、身内に潜む「獅子身中の虫」は、今まで以上にあちこちにいると考えた方がいいでしょう。
これまでの日本の農業政策は、本当に日本のために実施されてきたのか、そして今後はどうなのか、よく考えてみる必要があります。
冒頭の記事にもある通り、食料は安全保障の一部でもあります。その観点で言えば、当然国家は、国民の生活や安全を守るために、食料の自給率を高める政策をとっていかなければなりません。
しかし戦後以降、日本のカロリーベースの食料自給率は下がる一方で推移してきました。
戦後の1946年度は88%だったと言いますから、それから考えると驚異的な落ち方です。安全保障的に言えば、「国民の生命を支える食料を、国家が守れなくなってきている」ということになります。
日本では、1971年頃から減反政策がとられてきました。これについては賛否あり、その評価が難しいという言い方はできます。ただ、それをどう評価するにしても、国の農業政策は、結果として食料自給率の低下を招いたのは事実です。
そして今、規制緩和や民営化、自由競争といった「美辞麗句」を並べ立て、食料を安全保障上の重大な問題にさせるような動きが出ています。本来、国はそれを手放してはいけないはずです。
今、日本国内には、日本のためと言いつつ、日本を貶めようとしている「獅子身中の虫」がいる可能性について、十分に考えておく必要があります。油断なりません。今や日本政府自体、国民を守るつもりがあるかどうかも怪しい状態です。
結局、私たちは、自分たちの生活を自分たちで守っていく必要があるということです。
私はド素人ではあるものの、今年から農業にチャレンジしようと思っています。収支?そんなことは知りません。そもそも、最初から成功を見込んで始めるわけでもないです。むしろ、失敗続きでもいいと思っています。
でももし、そうやって始めていれば、食料問題が噴出したとしても、そんなにダメージはないかもしれません。むしろ、平時では大したことのない「素人野菜」が、ものすごく「価値あるモノ」に化けるかもしれません。
皮算用しているわけではありませんが、仮に外国の爆買いなどで、食料不足にでもなったら、「素人野菜」にだって、とんでもない価値がつくかもしれませんし、そうなったら収入だって大きく伸びることすら考えられます。
別に、そんなことを期待しているわけではありませんが、食料問題に対しては楽観しすぎず、同時に悲観しすぎないように生きていきたいと思うのでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?