蟻の穴ーー或る場面①ーー

〇駿府館、ある一室


今川義元……駿河の大名
太原雪斎……義元の養育係、現在は彼の軍師
龍王丸……義元の嫡男、のちの今川氏真
竹千代……松平広忠の嫡男、のちの徳川家康


義元よしもと。「ある者が言った。『きみふねしんみず』とな。されど、わしは逆じゃと 思う。其はなんぞや。」
龍王丸たつおうまる竹千代たけちよ「……(沈黙)」
義元。「では問いを変えよう。漁師がいるであろう。荒くれ者じゃ。されど彼奴きゃつらでも必ず従うものがある。何じゃと思う?そちはどうじゃ。」
義元は龍王丸にたずねる。
龍王丸。「船長ふなおさでござりましょうか?」
義元はやれやれと首を振った。
義元。「よし、答えを言おう……」
太原たいげん。「御屋形様おやかたさま、竹千代にも御下問ごかもんを」
義元は竹千代に目を向ける。
竹千代。「潮にござりましょうか?」
太原。「(笑顔でうなずいて)御屋形様、説破でござりますな?」
義元は黙る。
太原。「いかに漁師といえども潮の流れには逆らえぬ。逆らえばたちまち船もろとも海の藻屑じゃ。それをよく読み船の進路を変えつつ、目的地に向かう。主君たる者もまた同じ。潮の如く臣下を従わせ、従わざる者は容赦なく沈める。」
龍王丸の顔。
太原。「臣下たる者は主君の意を酌み、あらん限りの手を尽くして船を目的地に進める」
竹千代の顔。
太原。「時に潮の流れと船の向かうべき場所が違くとも、潮の流れに従い、よく舵取りをせねばならぬ。ゆえに『君は船、臣は水』は逆と言うたのじゃ。2人ともよう心得るように」
龍王丸・竹千代。「(頭を下げて)はっ」

〇その日の夕暮れ

今川義元……駿河の大名
太原雪斎……義元の養育係、現在は彼の軍師

義元。「(太原の方を向いて)師匠」
太原。「ん?」
義元。「鶏初めて乳す、とは思いませんか?」
太原。「竹千代か。あの子は一門を支える良き武将となろう。和主わぬし将来さきが楽しみであろう。」
義元。「その時、師匠も居てくだされ」
太原。「そうだな、承芳しょうほう

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