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表現の自由はフェミニズム的観点と和解するか(あるいはそもそも両者は対立しているのか)

 最近にわかに、「表現規制」という言葉が性差別の観点からよく聞かれるようになった気がします。

 私がこの論点の存在に遅ればせながら気づいたのは、皆さんも記憶に新しいであろう献血ポスター騒動です。

 献血が、ある胸の大きな女の子を描くマンガとコラボしたら、胸の大きさを強調した女の子を前面に押し出したポスターが炎上。具体的には、主にフェミニストの方々から「性差別を助長するのでこうした掲示や表現は控えるべきである」、あるいは「規制すべきである」といった声があがり、これに対して主にマンガファンなどの方々から「表現の自由を脅かしてはならない」といった反論があり、ネットで大論争(一部では罵りあい)が起こったというものです。
 
 この後も、似たような現象、すなわち女の子の性的な描写を非難する立場の人たちと、そういった表現を擁護する人たちとの論争は頻発しています。

 私は完全にオタクなので、既存の表現が規制されるというのは抵抗感があります。しかし、特定の描写を非難する人々の意見を、その抵抗感で、あるいは「お気持ち」の一言で退けていいものか、心にしこりを感じていました。

 そこで、本記事では、この論争に対する答えについて少し考えてみたいと思います。

 この論点、憲法学で新論点になるほど実は奥の深い問題らしいです。学説の最先端を行く内容…にはもちろんならず、素人の真似事みたいな記事にはなりますが、SNSの雑で早い議論(時に議論にすらなっていないが)に流されないために、noteで落ち着いて頭を整理しようと思うのです。

1. 何と何が戦っているのか

 まず出発点として、この論争ではそもそもどんな立場とどんな立場とが対立しているのか、もう少し丁寧に特定していこうと思います。

 この論争はとかく「オタクvsフェミニズム」みたいな簡単な表現をされがちなのですが、この論争の中身をしっかり検討するには、その「オタク」側とやらがどんな根拠で表現を擁護していて、「フェミニスト」側とやらがどんな根拠で表現を非難しているのか、その具体的な理解が重要であると考えるからです。

 なお、「フェミニズム」という言葉は非常に便利ですが、この言葉で示される思想には、一つの言葉でカテゴライズするのが憚れるほどのバリエーションが存在します。それを理解した上で、本記事では便宜上、表現擁護側を「オタク」側、表現非難側を一旦「フェミニズム」側と呼称させてください。

1-1. 「オタク」側の主張の論拠は何か

 これは簡単です。「表現の自由」です。
 表現の自由の根拠法は憲法第21条です。
   
 憲法第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
   
 その意味は文字どおりでして、日本国民は何かを自由に表現できる権利を保障されています。
  
 ではなぜ、表現の自由は大切なものとして保障されるのでしょうか?ここを理解しないことには、「表現の自由」という論拠の射程を見誤ります。

 これについては、米国の法学者であるトマス・エマーソンが、表現の自由の価値を、①自己実現、②思想の自由市場、③自己統治、④社会の安全弁の4つに整理しています。

 すなわち、まずは①何かを表現するということは、個人の人格の形成、発展に不可欠であり、何より「自分」という存在の尊厳の根幹となるものであるから、尊重されなければならない。また、②様々な思想が自由に交わされるからこそ、それらが議論という形でぶつかり合い、より高次元の結論に到達することができます。さらには、③自由な表現は、市民の自由意思の表明(≒投票)をその正当性の根拠に持つ民主主義に不可欠であるし、④こうした自由を尊重しないと、市民の反感が高まり社会が不安定になるのです。

 こうした理由から、表現の自由は、(とりあえず一旦は)その一切を尊重されるわけです。
 また、特にその精神的自由として重要性から、仮に表現の自由を規制する場合は、憲法で定められる他の自由よりも厳格な審査が必要であるとされています(「二重の基準」論)。

 なお、フェミニズムでは、一部で「性表現を助長する表現の自由など存在しない」という言い方で特定の表現を非難することがありますが、たとえ当該表現への非難自体が妥当でも、この言い方は乱暴に過ぎると考えます。
 性差別を助長する表現の自由は存在します。しかし、その表現は社会に悪影響を及ぼすから、一定条件下(あるいはもしかすると無条件)での制限が検討されうるのです。「そもそも存在しない」という言い方は、その「一定の条件」の検討段階の存在を無視する雑な表現と言わざるを得ません。

1-2. 「フェミニズム」側の主張の論拠は何か

 では、「表現の自由」が後ろ盾となる表現に対して、「フェミニズム」側はどのような論拠で批判を展開しているのでしょうか。

 私はSNSを眺める限り、この論拠はだいたい3種類に分かれるかなと考えています。それは、「エロいから」、「性暴力を助長するから」、「性差別を助長するから」の3点です。

 「フェミニズム」側の主張は人によって本当に様々で、これらの論拠が入り乱れています。ですので、これを整理・選別しないことには、「フェミニズム側」の意見がいかに「表現の自由」の牙城を崩せるのか、その論理を筋道立てて検討することができません。
 ゆえに、「フェミニズム側」の主張のメイン論拠となるものはこの3点のうちいずれなのか、特定する必要があるのです。

 この特定作業の助けとなるのは、最高裁判例や憲法学における学説です。最高裁や憲法学では、表現の自由の制限が問題となった裁判で、表現の自由がどのような理由づけで制限されうるのか、表現の種類ごとに提示しています。判例・学説から上3つの「フェミニズム」側の論拠を検討すると、以下のようになります。

1-2-1.  「エロいから」~わいせつ表現~

 「エロいから」その表現は規制されるべきである。これはわいせつ表現規制の論理です。
   
 表現の自由があるにもかかわらずわいせつ表現を規制する法律というのは、実はすでにあります。刑法第175条のわいせつ文書等頒布罪です。

 刑法第175条第1項  わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。(以下省略)

 この法律がなぜ憲法第21条に違反しないのか、どの範囲の表現を規制できるのかを争った「チャタレイ事件」という有名な判例があります。公民の授業とかでちらっと聞いた記憶がある方もいらっしゃるかもしれません。
 この事件は、『チャタレイ夫人の恋人』という、露骨な性描写を含んだ洋書の翻訳者、版元が刑法第175条違反として起訴された事件です。ここで最高裁は、わいせつ文書の判断基準を以下のとおり提示しました。

 「徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」
   
 日本の法解釈は基本的に最高裁判例に従いますので、「フェミニズム」側が「エロいから」という理由で特定の表現を規制した場合は、当該表現はこの基準を満たすことを示す必要があります。しかし、この基準の文言を見る限り、規制できる表現の範囲は非常に狭く、「フェミニスト」側的に使い勝手が悪そうです。

 なお学説では、この判定基準自体あまりに抽象的であると批判する意見も多く、そういった学説は、その基準を「普通人にとって明白に嫌悪を催す」ものかという、個人の「見たくない自由」を理由にした基準を提示します。しかしこの基準でも、規制範囲はかなり狭まると思います(グロ表現規制とかではこの論理は使い勝手がよさそうなのですが)。

1-2-2.  「性暴力を助長するから」~犯罪惹起表現~

 「性暴力を助長するから」その表現は規制されるべきである。これは犯罪扇動表現規制の論理です。
 例えば、やんちゃな男の子が女湯をのぞくような、少年マンガにありがちなシーン。これを、読者である少年たちに女湯のぞきを扇動させる可能性があるものとして規制を求める論理です。

 現在の法律では、犯罪の扇動表現を規制する法律はいくつかあります。代表的なのは、破壊活動防止法の第39条です。

 破壊活動防止法第39条 政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対する目的をもつて、(中略)の罪の予備、陰謀若しくは教唆をなし、又はこれらの罪を実行させる目的をもつてするその罪のせん動をなした者は、五年以下の懲役又は禁こに処する。

 これは「政治上の主義」の話なので性犯罪は関係ありませんが、こうした犯罪惹起可能性を理由とした表現規制の是非の基準としては、学説では「明白かつ現在の危険」基準を用いるのが有力です。これは先述の「二重の基準」論の一種で、特定表現を規制することが許容されるのは、その表現による害悪が「明白」であり、「時間的に切迫」している場合のみである、という理論です。

 これに照らし合わせてみると、明確に読者に性犯罪を奨励しているような表現はいざしらず、単に性犯罪を描写しているだけの表現と、実際の性犯罪の発生との因果関係が「明白」である、しかも、その表現を見たらすぐにでも性犯罪に手を出してしまうという「切迫性」があるというのは、難しいのではないでしょうか(特に後者)。

1-2-3. 「性差別を助長するから」

 3つ目のこの論拠は、先に述べた二つの論拠とは似て非なるものです。
    
 その表現は単に「エロい」というだけで規制されるわけではない。その表現は「性暴力」を引き起こすから規制すべきといっているわけではない。
 その表現は、「女性がこういうものである」という偏見を体現しており、それが流布することで、その偏見を読者たちが自然と受け止めてしまう。だから、その表現は規制されるべき、というものです。

 先に述べた二つの論拠は、それぞれわいせつ表現、暴力惹起表現という既存の論点であり、既存の学説、判例で有効な反論が可能です。
 しかし、この「性差別の助長」と「表現の自由」の対立を扱った判例はおそらくほぼなく、憲法学でも、これについて長年の議論が蓄積されているという状況ではないと思います。「表現の自由」側からは、少なくとも現在のところは、この論拠による「フェミニスト」側の表現規制論に対して固まった回答を出せていない、というのが現状だと考えます。

 それは逆に、この論拠は「フェミニズム」側の論拠として現在有効であることを示していると思います。

1-3.  戦いの当事者

 以上より、この論争の当事者をひとまず絞り込めます。

 「オタク」側の論拠は「表現の自由」。これに対して「フェミニズム」側の有効な論拠としては、よく見かける「エロいから」とか「性暴力の助長」とかではなく、「性差別の助長」を採用するのがよいでしょう。

 ゆえに、「オタク」側としては、「フェミニズム」側が非難する表現の「性差別助長」効果がないこと、あるいは仮に効果があっても「表現の自由」の制限に帰着するものではないことを主張していくことになります

 一方「フェミニズム」側としては、非難したい表現の「性差別助長」効果を強く示し、かつ、その効果の防止の手段として、表現規制が合理的であることを論証する必要があるのです。

2. 両者の戦いの行方

2-1.  表現の「性差別助長」効果とは何か

 これでようやく、ネットを燃やしに燃やしているこの論争の当事者を特定できました。
  一方は「表現の自由」。もう一方は、表現の「性差別助長」効果です。

 当事者が特定できたところで、いよいよ論争の中身に入っていきます。

 先攻は表現の「性差別助長」効果にはってもらいます。理由としては、この「性差別助長」効果自体理解が難しく、その意味をつまびらかにしないことには、「表現の自由」との勝負の行方を論理的に検証することはできないからです。
 まずはこの「フェミニズム」側の言う「性差別助長」効果というのが具体的にどのようなものなのか、見ていきたいと思います。
  
※ ここから説明するのは、あくまで「性差別助長」効果に対する私の理解です。「フェミニズム」側の言う「性差別助長」効果には本当に様々なものがあると思いますが、その中である程度主流に見え、かつ私が一番しっくりきた説を記載していきます。

 例えば、最近ショッピングモールや駅の案内画面で、女性のキャラクターが話しかけてくれるものがあります。
 その女性の服装が、例えば駅やショッピングモールの制服ではなく、肌の露出が多い水着のような服だったらどうでしょう。肌の露出が多いキャラクターは性的に魅力的だったり話題性が高かったりして、主に男性のファンを集め、その結果集客効果につながるかもしれません。
 しかし、これはいわば、集客効果のための手段として、女性キャラを性的な魅力を帯びたものとして活用しているわけです。ある大きな目的のためなら、女性はその性的魅力を通して利用できる。そんな考え方を体現しているわけです。

 あるいは、女性のお尻や胸、足を強調する表現技法。
 これらの部位は一般的に男性が魅かれる身体の部位ですので、女性を魅力的に描こうとしたとき、とても大きく胸が描かれたりその形が服の上から強調されたり、あるいは太ももにつやをつけてみたり、そんな表現は一部でなされています。こうした表現は、その女性という人間そのものというより、その女性の各部位の価値を置き、その部位を性的に愛でているわけです。

 あるいは、ラッキースケベのような、女性への性的接触を描くような場面。
 それ自体が即座に性犯罪に結びつくとは限らないことは上記で述べたとおりですが、女の子の下着が見えてしまったり、触れてはならないところに触れてしまったり、そんな表現が娯楽として多用される状況は、そうした女性の性的な部分は、男性の楽しみのために利用してもよいという意識を事実上体現しているかもしれません。また、その女の子が、ラッキースケベに対して無自覚だったりする描写が重なると、その「女性の利用性」という側面がさらに強まるでしょう。
    
 もちろん、こうした表現を行うイラストレーターや漫画家などが、「女性は男性に劣っている」だとか「女性は自分の性的満足を満たすために使っていいんだ」とかそういうメッセージ性を意図的に込めているわけではありません。加えて、そうした思想を「自覚的に」持っているような人も決して多くはありません。女性を冒とくするためにこんな絵をかいてやろうとか、そんな明白な差別意識は持っている人はほぼいないと言っていいでしょう。(ここはフェミニストの方々も多くが認めるところだと思います。というかそうであってほしい。)
    
 しかしながら、この現代において容易く行われている以上の表現は、創作者の自覚的な意図にかかわらず、それ自体が女性を「性的なもの」として描写しているものになってしまっているのです。決して性的に描写をしなければならない場面でも、そんな性質のものでもないのに、享受者(おそらく多数は男性)の満足を満たすためだけに、女性の性的な側面がむやみやたらに強調されている。
 これをフェミニズムでは「女性の性的客体化」(sexual objectification)といいます。マーサ・ヌスバウムという哲学者は、この「客体化」の意味をさらに明確にするために、この「客体化」を、「道具性」、「自律性の否定」、「不活性」、「交換可能性」、「棄損可能性」、「所有性」、「主観性の否定」という7つの概念に分類します。いかがでしょう、これらのキーワードを眺めた上で上記の例を再び眺めてみたら、なるほど、と思うところが皆さんもあるのではないでしょうか。

 では、なぜそんな「性的客体化」的表現が、現実の女性に直接危害を加えているものでもないにもかかわらず、非難されるのか。
 それは、創作者がどれだけ女性差別を意図していなかろうと、それ自体として「性的客体化」性を持ってしまった表現は、社会に残っている女性蔑視を補強、あるいは再生産する機能を持ってしまうからです。

 もっとわかりやすく言いましょう。視聴者や読者らが、女性を性的に客体化した表現を繰り返し享受する。すると彼らは、「確かに女性蔑視はよくないのはわかる。性犯罪なんてもってのほかだ。でも、このマンガで書かれている程度の意識を女性に向けるくらいは、まあいいよね」となってしまうんです。マンガやアニメが表現している女性に対する行為に読者も手を染める、とはいかないまでも、その行為に対する許容度が上がってしまうのです。
 そしてその意識や許容度は、自覚のないセクハラ、女性をスタイルや顔で判断してしまう意識、性表現、あるいは先ほど例に挙げた露出の多い女性キャラを活用したPRなどの形になって、社会にて再生産されてゆく。そして再生産されたその表現は、また別の人の「性的客体化」への許容度を上げさせてしまうのです。

 なお、この再生産効果は、その表現の場や主体が公共的なもの(役所など)であるほど、強くなってしまうでしょう。献血ポスターが炎上したのは、そのことも影響しているのかもしれません。

 これが、フェミニズムでいうところの、表現の「性差別助長」効果です。

※ 表現が、その表現者の意図に関わらずそれ自体として人々の意識を変える力を持つことについては、既に駆逐された表現である「トルコ風呂」も一つの典型的な例です。ご興味があれば調べてみてください。

2-2.  「表現の自由」による反論

 これに対して、表現の自由側はいかなる反論を行うことができるでしょうか。

 もちろん、上記の「性差別助長」効果を暴論として丸ごと否定することもできるかもしれませんが、私は上記のフェミニズムにおける理論は、少なくとも丸ごと棄却することはできない一定の合理性を持つものだと思います。正直はっとさせられるところも多いです。

 しかし、一旦その「性差別助長」効果を肯定するにしても、表現の自由への攻撃、すなわち「表現規制」を否定することは可能です。私もこの立場でして、以下に、「性差別助長」効果論を肯定した上で、表現規制に反対する根拠を以下に記載します。

2-2-1.  理念面での反論

 まず、表現規制はその理念面で、フェミニズム内に自己矛盾を引き起こすのでは?と考えます。

 フェミニズムの出発点は、女性の主体性の獲得、自己実現だと思います。であるのならば、精神的自由を標榜する点で、フェミニズムと表現の自由は、共通の祖先を持っているとも考えられるのです。
 しかし、表現規制は、性表現が女性の精神的自由をあくまで間接的に(「性的客体化」意識の再生産という形で)阻害しているのに比べて、表現の自由を直接的に攻撃します。すなわち表現規制は、「精神的自由」という自らの理念を守るために、他者の「精神的自由」を、現在自らが阻害されているよりもさらに致命的なやり方で阻害するのです。これを擁護するのは、難しいのではないでしょうか。

2-2-2. 法理論からの反論

 次に、先述のとおり現在の判例や憲法論では、表現の自由はその趣旨の重要性から、他の自由の権利よりもさらに強く保障されています(「二重の基準論」)

 具体的には、表現の自由を規制する際は、明確性(規制範囲は委縮効果等を招かない程度に高度に明確か)、「明白かつ現在の危険」性(先述のとおり)、LRA(Less Restrictive Alternatives)(時・場所・方法に着目して規制する場合、より制限的でない他の選び得る手段が本当にないか)といった、様々なハードルを越える必要があります。これらを理論的に越えて表現規制まで到達するのは、非常に困難です。

2-2-3. 現実面からの反論

 そもそも、表現を生業、あるいは生きがいとしている人たちに、いきなりその表現をやめろ、といっても素直にやめるはずがないのです。「表現の自由」の保障も背景として、強い、あるいは感情的な反発を招くのは必至であり、現にこの論争は本当にネットで可燃性です。

 また、鳥が先か卵が先かみたいな話になりますが、差別的表現が無意識の差別意識によって生まれるのであれば、差別的表現を排するのではなく、少々困難であっても、その無意識の差別意識のほうを排するほうが理にかなっているのではないでしょうか。煙をいくら隠しても、火が消えない限りは、煙は立ち続けるのですから。

3. 表現の自由とフェミニズムの共存(+筆者のお気持ち)

 そう、私のこの論争に対するスタンスは、「フェミニズム」側は安易な表現規制を論じるのではなく、創作者、コンテンツの享受者の無意識化に残っているかもしれない差別意識を論じるほうがよいのでは、というものです。

 頭ごなしに表現を否定せず、彼らが意図的に女性を貶めるために表現を行っているわけではないことを認めた上で、彼らに対し、上記の「性差別助長」効果を丁寧に説く。そして、彼らに自らが無意識にもっている意識を、自覚させていくことが何より大事なのではないでしょうか。
 そうすると、表現者や享受者は、自らが持っていた差別意識に自覚的になり、既存の表現を自ら改めるかもしれません。表現の自由を規制されることで表現を変えるのではなく、自らの表現の自由の行使の一環として、表現を変えるかもしれないのです。
 そしてそれは、まさに冒頭で述べた「表現の自由」4つの機能の2番目である、「②思想の自由市場」の実現です。思想を頭ごなしに否定するのではなく、異なる思想をぶつかり合わせる。そしてその議論を通して、より高次元の思想に到達できる。
 このように、表現の自由とフェミニズムは、実は本来的に対立するものではなく、共存できるものなのです。

 また、現に、マンガやアニメにおける表現は、徐々にではあるものの、確かに変わってきています。
 下品だったりエッチだったりする表現は、一昔前に比べて、少しずつ少年マンガにおいて影が薄くなっているように思います。また、女性はもはや主人公に守られてばかりの存在ではなく、主人公とともに戦ったり、あるいは主人公の代わりに戦ったり、自ら主人公になったり、さらには女性蔑視の社会に風穴を開けること自体が物語として成立したりするようになってきている、そう私は感じます。
 表現にとってフェミニズムとの邂逅は、対立を意味しないし、フェミニズムへの服従も意味しない。表現はフェミニズムと出会い、その思想を主体的に咀嚼することで、これまでにはなかった形で、さらにその多様性を強化させることができるのです。

 だから、表現者も、フェミニストも、相手を頭ごなしに否定することはやめてほしい。
 フェミニズムにとって、表現の自由はさらなる高次元の結論へと到達する武器である。表現にとっても、フェミニズムはさらなる多様性へ到達するために利用できる手段の一つになる。
 その可能性を探るために、相手の理解、そして対話を双方が忘れないでほしいです。

   
 そして、ここからは私のオタクとしてお気持ち表明です。

 表現側は、フェミニズムの思想を(必ずしも賛成せずとも)理解し、男女差別の無意識の可能性と向き合ったうえで、それでも女性のかわいい、かっこいい、エッチを追求してほしいなあと思います。

 オタクが女の子をかわいい!とか尊い!とかいう時、その気持ちに嘘はないんです。純粋に、キャラを崇めています。女性搾取としての「かわいい」も存在するかもしれませんが、女性に対する賛歌としての「かわいい」も、確かに存在するんです。そこをフェミニズムにはわかってほしいですし、表現者には、純粋な、蔑視のない主体的女性の「かわいい」、「かっこいい」、「エッチ」を目指してほしいです。

 もう1点、フェミニストの方々には、どうか毛嫌いせず今のマンガ、アニメを幅広くのぞいてみてほしいなあと思います。先ほども書きましたが、今のマンガ、アニメは確かに変わり始めています。抑圧された人々、あるいはマイノリティの生き方を真摯に表現している作品がたくさんあります。

 オタクたちが確かに、ゆっくりとですが自ら前進している事実にも、まずは向き合ってほしいなあ、と思うのです。

(おわり)


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