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愛しい退屈達よ

学部の最高学年ということもあって、1月末にもなると何となく別れの季節を意識する。
執行猶予というべきか、モラトリアムというべきか。私にはもうあと2年の学生生活があるが、大半の同級生たちはこの春大学を卒業していく。

多くの卒業生の例に違わずこれまでを振り返ってみれば、大学生という肩書きをもって暮らした4年間は本当に濃い時間だった。

サークル活動そのもので得た感情の7割くらいは「悔しい」だった。
不慣れな勝負の世界に飛び込み、対戦相手ではなく自分と戦っていた時間が長かったように思う。

学生の本分である学びにおいてもずいぶんと苦労をした。
自然科学系の学部を卒業できる(予定な)のが不思議なくらい物理数学が苦手で、講義中にぶっ倒れそうになったりほぼ半分泣きながら課題をこなしたりすることもしばしばあった。

凹みやすい気質も手伝って、大学に行けない日もあった。
両親との関係、自分自身のこと、世話になった人との別れ、取り巻く環境のあれこれ。


苦い思い出を書き綴ったけれど、どんなことを振り返ってみても、最終的にはたくさんの友人らの顔が浮かぶ。
サークルや学科の同期、高校時代の元クラスメイト、幼なじみ。

夜な夜なくだらない話をすることもあれば、静かに時に熱量をもって好きなことについてひたすらに語り合うこともあった。ずっとずっと、話をしていた。
どんな時でも身を案じてくれた。
「会えなくなるなら自分から会いに行けばいい」という言葉に背を押されて遊びの誘いを持ちかけたり、逆に「いつ帰ってくる?」と連絡を受けたりもした。

私は友人らを心から敬愛している。しかしこの気持ちは一体どれくらい伝えられているのだろうか。
言語の発達した生物である人間が言葉で伝えられないはずないのに、うまく言えないことや形にできないことばかり。


だからこそ、この世界には音楽があるのだろうなと、何となく思う。
日本ならば和歌の詠われた時代から、歌は大事なことを口下手に、しかし包み隠さず言う手段なのかもしれない。

いつでも音楽を聴いている。
サークルの遠征中、実習までの移動時間、自分の部屋、布団の中。
掴めもしない存在は、CDプレイヤーやスマホから、頭の中へと鳴り響く。

そうやってこれまで聴いてきた「形にできない音楽」を「形にできない感情の代弁者」として一人ひとりに送り付けたいくらいには、周囲の友人らそれぞれに言いたいことがある。
でも今それをするには些か早計で、少しだけ心の準備が必要だから、ひとまずこれを読んでくれている人へ向けて、傲慢ながら1曲だけ送らせてほしい。



結局私は、愛しき退屈を共に過ごした友達と音楽をひとつの“アトム”として、これからも大事にしていきたいって話。

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