3/5 痛みを減らす選択と基準
前回の記事で、闘病中の私にとって正しいのは治療に必要なことであり、正しくないのは必要でないことだと書きました。
今思えば、「喜びを増やす、あるいは痛みを減らすことが正しく、痛みを増やすことが正しくない」と言うこともできると思います。
ただそれを文字通りにとらえると、自分が痛くなければ何をしてもよいのか、となります。
だから私は痛みに広い意味を持たせ、以前触れた良心の痛みを含ませます。
たぶんぬるいことを言っているとは思うのですが、ぬるさは私にとって痛みではないので気にしないことにしています。
それに、そうすれば自ずとこの信念の限界も見えてきます。
自分にとって痛みでないことが、他の人にとってどうかはわからないからです。
たとえば痛みがひどい時も、道路であれ公園であれ寝転がったりはしません。
当たり前のようですが、本当に切羽詰まった時は、たぶんそうします。
ただ普段は治療というメリットよりも、周りの目に奇異に映るというデメリットの方が大きいように思えるからしません。
闘病中はおそらく、迷惑はかけないまでも、奇異に見えることはたくさんしていると思います。
私なりにメリットの大きい方を選んでいる結果です。
では治療のために誰かに傷つけたり、迷惑をかけたりすることが必要だと思えたらどうするか。
そういった内側と外側の不一致から、先ほど触れた限界が問題になります。
ただ、私としてはそこまで現実的な問題ではないと思っています。
良心の痛みからくるストレスを考えれば、人に迷惑をかけて行う治療のメリットは大きくないと思うからです(そんな治療があるとすれば、ですが)。
これは性格というよりは運の問題だと思っています。幸い私の良心はある程度適切に機能しているように思えるからです。
たぶんそれは大多数の人に言えることだと思います。
隠さなければいけない状況が多いとは言え、罪悪感をまるで感じない人はあまり多くないと私は思うからです。
感じないと思わないといけない、自身にそう言い聞かせないといけない状況があることは私も強く認めます。
また外出しづらい現状では、良心を発揮する機会も以前より減っているかと思います。
またこれはあくまで個人の内側の信念の話であって、現実にたしなめられることも当然あります。
そのたびに矯正したり、抗ったりしなければいけない。
だからできる限り期待せず、なるべく求めない。差異があることの不利益が大きいのなら修正する。
その繰り返しです。
それでも良心の痛みまで考慮に入れれば、自分が本当に望み、正しいと思うことがそこまで世間の判断とずれることはないし、それは私に限った話では決してない。
そう思います。
本日は以上です。
読んでくださる方がいらっしゃいましたら、ありがとうございますm(_ _)m
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