2021-05-14 テーマパークと血肉

建築家の隈研吾とジャーナリストの清野由美の『新・都市論TOKYO』から続く3冊の東京論シリーズを読んだ。丸の内・六本木・町田・高円寺・中目黒・神楽坂・池袋などなど。街の歴史や最近の開発のあり方をふたりが歩きながら論ずる。慣れ親しんだ街を自分の知らない知識で語られると気持ちがいい。

近代の都市はテーマパークを求めるという。無節操に開発された都市にいると人々は19世紀に完成したヨーロッパの国々ような統一感のある街並みを欲する。

アメリカはテーマパークというフェイクタウンを「発明」した。ロサンゼルスというもっとも粒子化が進展した都市のすぐ隣に、二十世紀を代表するテーマパーク、ディズニーランドが登場したのは決して偶然ではない。(『新・都市論TOKYO』pp.18-19)

ぼくはディズニーランドにはあまり惹かれないのだが、大学のキャンパスを巡るのは好きだ。レンガ造りの歴史あるキャンパスもあれば、バブル期のゴージャス志向のものもあり色とりどりだ。大学のテーマパーク化は学生が勉強しないで遊んでばかりいるという議論だけど、大学キャンパスの歴史的変遷についてはもっと知りたい。

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phaさんの日記を読んでいて文章を書くことについて書いている記事があった。気に入っているので引用しておく。

僕が文章を書くのは自分のためだ。自分が何かを考えたいから書くし、自分が何かに納得したいから書く。書かないといつまでも同じところを堂々巡りしてしまうけれど、書くと思考や人生が前に進むような気がする。
生物というものが食べ物を摂取して排泄するように、自分にとって何かを読んで何かを書くことは、生きることと一体化しているような感じがある。
いや、もっと大きい理由は、書くことに圧倒的な快楽があるからだ。どんな快楽よりも文章を書くことが一番楽しいと思っている。世界を自分なりのやり方で工夫して言語に落とし込むこと。そのやり方を考える過程や、納得のいくかたちで書きあがったときの達成感が、一番好きだ。(「誰にも読まれなくても文章を書く」https://pha.hateblo.jp/entry/2020/05/12/232121)

以前の日記でぼくも同じようなことを書いた気がする。いまとなってはわからないが、あのとき実はすでにこの文章が頭にあったかもしれない。人の思考はこうして自分の血肉になるんだなと感ずる。

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