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礒永秀雄の略歴

海を命の源泉として数々の作品を残した詩人礒永秀雄は、1921(大正18)年1月17日に朝鮮仁川で洋服屋の息子として生まれ、京城中学、姫路高校を経て東京大学文学部美学科に入学。大学在学中の1943年(昭和18)に学徒出陣で赤道直下のハルマヘラ島へ赴任し、戦後の1946(昭和21)年、父親の出身地であった山口県光市室積に復員した。

復員後すぐ光市役所に勤務。その後教員として室積中学校、徳山高等学校、光高等学校に勤めた。その一方で詩や童話や随筆などを書き、1950年に駱駝詩社を創設し、正統詩を標榜して同人誌『駱駝』を創刊。その翌年には第1回山口県芸術文化奨励賞を受賞した。礒永の詩は、年を経るごとにスタイルは変わっても、不純なものを拒絶し、純粋さを求める姿勢が根底にあるのが共通した特徴で、代表作には詩集として『浮灯台』『別れの時』『海がわたしをつつむ時』、童話集として『四角い窓と丸い窓』『夢の柩』などがある。

また、学校の校歌の作詞者としても有名で室積小学校、室積中学校をはじめ多くの校歌の詩を手がけている。

1976(昭和51)年7月27日山口県光市において55歳で急逝。礒永秀雄の詩の原点は学徒出陣で赤道直下に送られ多くの親友を失った戦争体験にあり、再び戦争の道へと歩まない様あらゆるまやかしと対決。その姿勢は生涯貫かれた。

室積のみたらい公園には、学校の教え子をはじめとする礒永秀雄を偲ぶ人々の寄付金によって「海がわたしをつつむ時」の詩が刻まれた詩碑が建立されている。



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