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マッチデー売りの少女

青赤短編REMASTERD Vol.5


2011年5月22日
Jリーグディビジョン2 第13節
FC東京 1-1 湘南ベルマーレ
https://www.fctokyo.co.jp/game/2011052206

短編小説/4084文字



 アヤコは、スタジアムのコンコースに立っていた。
 右手に薄い小冊子の見本を持ち、左手にはその小冊子が詰まったトートバックを下げている。

 雨の味の素スタジアム。
 今日は15000人ぐらいかな、とアヤコは思った。

 味スタのコンコースに立ち、マッチデープログラムを売るこのバイトを始めたのはだいたい2年前、2009年のことだ。売り子を始めて3シーズン目になるアヤコには、前を通り過ぎる人の数で、その日の観客数が何となくわかるようになっていた。

 ただし、今は後半に入ったばかり。
 時折子供を連れてトイレに駆け込む母親が目の前を横切ることがあるものの、基本的に人影はまばらだった。スタジアムの中からは、試合の展開に一喜一憂する歓声や、絶え間ないチャントが響いている。

 ここから試合終了までは暇な時間帯だった。基本的にマッチデープログラムが売れるのは試合前と終了後だ。試合の真っ最中に売れるものではない。

 アヤコの位置から試合を見ることは一切できなかったけど、1-0でFC東京が勝っていることはわかる。さっきゴールが決まった大歓声が起きたからだ。

 このまま終わってくれたらいいのに、と思った。負けや引き分け試合の後は売り上げが落ちるし、なによりみんなギスギスとしていて嫌なのだ。最終的に降格することになった去年のシーズンは最悪だった。

 雨は相変わらず降り続いている。アヤコはぼんやりと暗い空を見上げる。今日は家から最寄りのつつじヶ丘駅まで自転車で来てしまった。明日は一限から授業があるので、自転車を置いて行きたくない。止めばいいのに、雨。

 ふと、いつの間にか目の前に小柄なおばあさんが立っているのに気づいた。どことなく気品をまとった佇まいで真っ直ぐにアヤコを見つめている。

「あ、失礼しました。一部でよろしいですか?」

 あわてて間抜けな応対をしてしまう。どこにマッチデープログラムを何冊も買う客がいるものか。

 改めておばあさんを見て、アヤコは奇妙な違和感を覚えた。おばあさんは口元に不思議な笑みをたたえながら彼女を見上げている。ベージュのスカートに白いカーディガン。灰色のストールには古風なから草の模様。

 ああ、そうだ。違和感の原因がわかった。このおばあさんは青と赤のFC東京カラーを一切身につけていない。アヤコが立っている場所はFC東京の応援エリアで、チームカラーの青と赤を身につけていない人間は少数の部類に入る。

「マッチデープログラムってなにかしら?」
 おばあさんが見た目とは不釣り合いな、透き通った良く通る声でアヤコに聞いた。
「えーと……」
 とっさに答えかけて言葉に詰まる。今まで、マッチデープログラムについて、こんなに単刀直入に質問したお客さんはいなかった。

「マッチデープログラムというのはですねえ、今日の試合のプログラムです。ほら、映画館にもあるじゃないですか」
 全然上手く答えられていない。手に持ったマッチデープログラムを見せながら、懸命に説明する。

「ここ。表紙に今日の日付けと対戦相手が書いてありますよね?2011年5月22日、VS湘南ベルマーレって。つまり、今日の試合のガイドみたいなものなんです。」

 今度はうまく説明できた。

「今日しか買えないものなのね。どんな内容なのかしら?」
 本当のことを言うと、スタジアムを出たところにあるグッズショップでバックナンバーを買うことが出来るのだが、この場では黙っておくことにした。内容についてはちゃんと説明できる。

「えーと、今回はまず、梶山選手のインタビューが載っています。あとは前々節の富山戦と前節のアウェーゲーム、ザスパ草津戦の戦評ですね。残念ながら負けてしまいましたけど」

 アヤコはとりたててFC東京のファンという訳でもないのだが、一応試合結果は気にしていた。単なる学生バイトの身ではあるが、サッカースタジアムでバイトする以上、それくらいは知っていなければ、と思っていた。

 おばあさんは、相変わらず不思議な笑みを浮かべながらアヤコの話を聞いている。

「先週の結果?」
「はい。ここに。先週のアウェイゲーム、ザスパ草津戦の結果が」
 声のトーンを落としながらページを開いて説明する。おばあさんはどうやら先週の敗戦を知らないらしい。思ったとおりサポーターではないみたいだ。アヤコの中で、妙なプロ意識が生まれる。サポーターではないお客様こそ、大切にしなくては。

「あとは、もちろん今日の対戦相手、湘南ベルマーレの情報も」

「過去のことがわかるのね?それじゃ一冊いただこうかしら」
「ありがとうございます。1部200円になります」
 おばあさんは100円玉を2枚取り出すと、アヤコに差し出した。袋の中から、なるべくきれいなもの1冊選び、おばあさんに渡す。

 受け取ったおばあさんは、その場でページを開いた。いつの間にかチェーン付きの老眼鏡かけ、熱心に読み込んでいる。

「今日のことはどう書いてあるの?」
「このページに書いてあります。もう後半に入ってしまっているのでどこまで合ってるかわかりませんが。今日の戦い方に関してのプレビューが書いてあります。対戦相手の湘南ベルマーレの情報も」

 アヤコはだんだんとこの会話を楽しんでいた。おばあさんの目のいたずらっぽく、どこか楽し気な表情に乗せられている。

「今日の結果はどこに書いてあるのかしら?」

 出し抜けに聞かれ、キョトンとしてしまう。
「今日の……結果、ですか?」
「ええ。先々週の結果と先週の結果はわかったわ。でもそしたら今週の結果も知りたくなっちゃうじゃない?」

 おばあさんはいたずらっぽく笑いながらアヤコに話しかける。ん?私、もしかしてからかわれてる?でも、だめ。相手はお客さんなのだ。

 アヤコは内心バカみたいじゃないか?と心配しながら、大真面目に答えた。
「いや、今日の結果は載ってないんです。なんせ、今試合をやってる最中ですから」

「そうなの。でもなにか不思議だわ。表紙に書いてある試合の結果が載っていないなんてねえ」
 おばあさんはマッチデープログラムのページをめくりながら、本当に不思議そうに話している。
「あら、ここにある空欄は何かしら。ほら、ここ4ページ」
おばあさんが指差す部分を覗きこむ。

FC東京 □ [ ]前半[ ]□ 湘南ベルマーレ
      [ ]後半[ ]

「ああ、これはですね、保存用に今日の結果を手で書き込む欄です。あとで見返した時のために。たとえば今日の前半はもう終わっているので、[ 1 ]前半[ 0 ]って記入できますよね。後半が終わったら同様に[ ]の中に数字を書いて、最終的な点数を □ の中に書くわけです」
「なんだ、あるんじゃない。今日の結果の欄が」
「ええ。試合が終わったら記入していただきますと、いい思い出になりますよ」
「ここにペンがあるから、あなた記入して下さらない?」
「かまいませんよ」
アヤコはボランティアのような気持ちで、前半の欄に1と0を書いた。
「はい、どうぞ」
「まだよ。後半の欄と□ の中も埋めてちょうだい」
「え?まだ試合中ですよ?」
「構わないわ。あなたの思う結果を書いてちょうだい」

 どうやら私は本当にからかわれているらしい、と思った。

 どうしよう。
 おばあさんを喜ばせるために10-0とか書いてやろうかとも思うが、どうせもうすぐ結果は出るし、第一このおばあさんはサポーターというわけでもなさそうだ。それどころかサッカーのことも良くわかっていない気がした。アヤコは、少し意地悪な気持ちで話しはじめた。

「今のチーム状態だと、簡単に追加点は奪えないでしょう。そんなに点の獲れるチームではありません。」
 もちろん、ハーフタイムに聞いたサポーターたちの会話の受け売りだ。
アヤコは言葉を続ける。
「しばらくこの状態が続いて、我慢しきれずにカウンターで1点やられるかも知れませんね」

 負ける、と言わないのは最低限の気遣いだ。別にFC東京に負けてほしいわけじゃない。

「そう。そうなるのね?」
「ええ。その可能性はあります」
「ふふふ、まるで予言ね?」
「当たれば、まあそうですね」
「そしたら、そのように書き込んでちょうだい」
一瞬たじろぐ。
「え?でもその通りにならないかもしれないですよ?私、責任とれないですよ?」
おばあさんが、静かで荘厳な笑みをたたえながら答える。

「大丈夫。きっとその通りになるわ」

 おばあさんの言葉の余韻が頭の中に響いている。催眠術にかかったように、アヤコはペンを走らせた。

[ 0 ]後半[ 1 ]

 書き込んだマッチデープログラムをおばあさんに渡そうとする。しかし、目の前に居たはずのおばあさんは忽然と姿を消していた。

 アヤコは人影のまばらなコンコースに立ち尽くしている。手に数字の書き込まれたマッチデープログラムと、ペンを握って。心の内に説明しようのない不安が広がる。なぜか、とんでもないことをしてしまったような気がした。

 いつの間にか雨は止んでいた。

 次の瞬間、東京サポーターたちの方からどよめきが上がる。それは次の瞬間、悲鳴となり、最後に失意の溜め息と、呪詛の言葉に変わった。





 J2で苦戦を強いられていたFC東京。前々節に「羽生の涙」ゴールで勝利を収めるも、続くアウェイではザスパ草津に逆転負けを喰らってしまいます。この日は雨の中、少し重苦しい雰囲気でしたが、開始1分、ロベルト・セザーのゴールによりあっさりと先制。ただし追加点が奪えず、後半85分に追いつかれ、痛恨のドローに終わりました。

 今ではボランティアの方が入り口でチラシのように配る形になっていますが、2018年まで、味スタではマッチデープログラムを販売していました。1部200円(のちに300円)の小さな冊子を購入することは、スタジアムでのルーティンになっていました。

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