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After, After the Rain

青赤短編REMASTERD Vol.3

2014年4月6日J1リーグ 第6節
味の素スタジアム
FC東京 2-1 サガン鳥栖
https://www.fctokyo.co.jp/game/2014040607

短編小説/3294文字




雨は嫌いじゃないって思ってた。

青空よりも曇り空か雨空の方が好きだった。
だけど、今日のこの雨は目障りで、耳障りだ。

あたしは部屋の窓から、雨の中を歩いて去るあの男の背中を見ていた。
さっきまで、恋人だった男。
窓の外の景色が、あの男の背中が存在するってだけで、見知らぬ街のように見えた。

見慣れた路地と、見慣れた背中なのに。

もうすぐ路地を抜けてバス通りに達し、あの男は右に曲がり、それでさよならだ。
後ろから見ているのは、未練なんかじゃない。
あの男は振り向きなどしない。
それには確信があった。
別に、悲しいとか苦しいとかは一切思わない。
ただ、どこまでも空虚で、淡々とした気持ちだった。

突然、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。
あの男がバス通りに消えるのを最後まで見届けるのは止めた。
あたしは無性に煙草が吸いたくなった。
ベッドサイドテーブルにあの男のマルボロライトメンソールがあったけど、そのままゴミ箱に投げ込んだ。
あの男の煙草だからじゃない。

あたしはメンソールが嫌いだ。

本棚の上にソフトケースのJPSがあるのを見つけた。
黒いパッケージの中には、捻れてしけった煙草が3本だけ入っている。
あたしはそれに火を点けて、キッチンに寄りかかると、ワンルームの部屋を見回した。

あの男があたしに働いた裏切りが発覚したのはほんの1時間半ほと前のこと。
本当なら、その瞬間に蹴り出すべきだった。
言い訳や嘘をただ聞いていた、人生で一番無駄な90分。

部屋の中には、昨日まで当たり前のように感じていたあの男の気配が、今は違和感となって漂っている。
3年も暮らしたお気に入りの部屋が、まるで自分の居場所じゃないような気がする。

あたしはくわえ煙草のままベッドに横になり、天井を眺めた。
煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼり、天井すれすれで空気と溶け合って消えていく。
いつか天井に当たるかと思うんだけど、一向にそうはならなかった。
あたしは空気を揺らさないように身動ぎせず、それをいつまでも眺めてた。
特になにも考えなかった。
あくまでも空虚で、マイナスの感情も、当然プラスの感情も浮かんで来ない。
窓の外では雨が激しく降っていて、ただただそれが耳障りだった。

どれくらいそうしてただろう。
眠るでもなく天井を眺め続けてたあたしは、この空虚さの一因が、お腹が空いているからだってことに思い至った。
ベッドから起き上がると、キッチンに行き、冷蔵庫を開ける。
料理をしないあたしの部屋の冷蔵庫にはビールと炭酸水、あとはつまみになりそうなものぐらいしかない。
それにダイニングテーブルの上に残る、固くなったバゲット。
ビールを飲み干したい欲求に駆られたけどそれはやめて、炭酸水とカマンベールを取り出す。
あたしはバゲットを切らずにトースターに放り込んだ。

パンが焼けるまで、特にすることもなく待つ。
空虚さの中に、パンの焼ける香ばしい香りが沁みていく。

あたしは焼けたパンにナイフでチーズを塗りつけながら、立ったままそれにかじりついた。
昨日の夜、カルディで買ったチリだかコロンビアだかのワインをあの男と飲みながら、ほとんど同じ物を食べていたことが信じられない。
ねっとりとしたチーズが口の粘膜に絡みつく。
ただ腹を満たすためだけの食事は、プリミティブで悪くないと思った。
あたしはそれを一気に平らげると、ようやくダイニングの椅子に座った。

全然足りない。
目の前にあったオレンジを一個と、箱に入ったチョコレートを5個一気に食べた。
実家から届いたというオレンジと、ピエール・エルメのチョコレート。
あの男はオレンジが嫌いだった。
でも、それはいまのあたしにとっては、ただの酸味と甘さでしかない。

ようやく空虚さが少し薄まったような気分になり、あたしはまた煙草に火を点ける。
ふと、これが解放感に近い気持ちだということに気づいた。

さて、今日はどうやって過ごそう。
今はまだ日曜日の昼間と言って差し支えなく、週末はまだ四分の一残ってる。
目の前にある、オレンジの皮とチョコレートの包み紙を見つめながら考えた。
あの男がいたせいで、できなかったこと。

ふと、あたしはカレンダーを見て、その次に時計を見た。
次の瞬間、すべてがクリアになった。
まるで、雷に打たれような気分だった。

どうやって過ごす、だって?
そんなの考えるまでもなく決まってるじゃないか。
あたしは本来あたしのしたかったことをするのだ。

サガン鳥栖とのホームゲームへ。
あたしは、神様に感謝した。
危うく、あの男にも感謝するところだった。

まったく、別れ話をするなら、ゲームのある日に限る。
この状況に、ひとりのスタジアムほどうってつけの場所なんてない。
キックオフには到底間に合わない時間だったけど、後半からだって構わない。
なんなら試合終了後のセレモニーだけでもいい。

あの男はサッカーにはほとんど興味がなかった。
一度、好きなサッカーチームを聞いたことがある。
あの男は、よくわかんないけど、強いて言うなら鹿島とガンバが好きだ、と言った。
あと、なんとか言うスペインのチームと、イングランドのチームも。

あたしはその事が滑稽に思えて笑ってしまう。
好きなサッカーチームを聞かれて四つも答える男と、このあたしが付き合っていたなんて。

あの男の趣味に合わせて、今年はまだ一試合もスタジアムに行っていない。

あたしはいい加減に服を選び、適当にメイクをした。
クローゼットの奥から、古いモデルのユニを選んで着た。
あの男と出会う前に買ったユニフォーム。

家のドアを開けると、雨は止んでた。
そのことに少しホッとした自分が、まるで他人のように思えた。
別に雨に濡れながらバイクを走らす自分に憧れてたわけじゃない。
バイクのシートは雨で湿っていたけど、あたしは構わずに跨がってエンジンを掛けた。

あたしのロイヤルエンフィールド・ブリット500。
しばらく放置してあったから不安だったけど、キック一発で単気筒エンジンが力強く唸りを上げる。
インド製のバイクの振動は紛れもなく実体で、あたし心を暖かく侵食してくる。
オイルとガソリンの匂いを嗅ぐと、ふわりとした非現実感の霞が晴れていくみたいだ。
晴れる?
あたしは晴れを望んでいるんだろうか。

とにかく、バイクを走らせた。
肌に当たる風は切りつけられるように冷たくて、今が何月なのか忘れさせる。
でも、あたしは心地よかった。
次第にスタジアムに向かう時特有の高揚感を思い出してくる。
煙草、オレンジ、バイク、フットボール。

あたしは街全体が含んだ湿り気を振り払うように、スピードを上げた。

遠くに味の素スタジアムが見えて来た。
試合はすでに始まっていて、この時間の人影はまばらだった。
あたしは天文台通りから東門に曲がる右折車線でウィンカーを出した。
立ち話をしていた2人の警備員が、あたしを迎え入れる。

そして、スタジアムへのアプローチ、満開の桜並木の途中で、目の前に広がった光景。
あたしは思わずバイクを止める。

灰色の雲の切れ間から射し込んだ金色の光が、銀色の味の素スタジアムを幻想的に輝かせていた。
一陣の風が花びらを巻き上げて、ペイルブルーの空へと解き放つ。

あたしはそれを美しいと思った。
まるでこの世のものだなんて思えないくらい美しいスタジアムが、あたしのホームだ。
そう思うだけで、なんとなく体が沸き立つみたいな気がした。
あたしの居場所はここにある。

遠くから歓声が聞こえた。
今日は必ず勝つし、あたしは全然大丈夫。
強く強くそう思った。

当たり前の話だけど。



試合直前まで激しい雷雨に見舞われた味スタ。しかし、キックオフの時刻には嘘のように雨は止み、雲間から光が差し出します。スタジアム周辺の桜は満開。風に舞う花びらは太陽の光を受けてキラキラと光り、空には月まで。この世ならざる美しい光景が広がっていました。
試合は後半、河野と平山のゴールで勝ち越し、豊田に一点を返されるも逃げ切り勝ち。この年のリーグ戦初勝利となりました。

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