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自分とは何か ⅵ



小学校を卒業するタイミングで、スマホを買い与えられた。世は大ドラゲナイ時代。周りの友達は既にiPod Touchを持っていたりして、みんなでセカオワに下品な替え歌をつけて笑っていた。

これでやっと音楽が聴ける。真っ先に違法アプリをインストールした。覚えればカラオケとやらにも行ける。人生は希望に満ちていた。周りでは太鼓の達人がブームのようで、DSで対戦したり、マイバチをショルダーバッグに忍ばせている友達も多かった。ゲーセンに小銭を落とすくらいなら塗料が欲しかった僕は、友達と居る時、耳に入ってくる脳漿炸裂ガールとか六兆年と一夜物語とか、ウミユリ海底譚とかを口ずさんで暇を潰していた。それらをちゃんと聴いてみよう。

ずっとイヤホンをつけていた。自転車のペダルに足をかけて、坂を登る時も、下る時も。いつの間にか作業机には埃が溜まっていた。

能動的に音楽が聴ける状況となり最初に好きになったのは、じん(自然の敵P)によるカゲロウプロジェクトの楽曲群だった。曲ごとにキャラクターのストーリーがあり、それを題材にした小説や映像があるというコンセプティブな世界観に、他とは一線を画す魅力を感じた。13歳の心を掴んで話さない大筋と設定、鮮明で大雑把な色遣い、キャラデザイン、シュールで幼稚なユーモア。どこを切り取っても性癖に刺さったし、どの曲も小気味良く、メロディがキャッチーで、雰囲気が曲によって違う。また、ストーリーを知っているから、登場人物の心情を叫ぶような歌詞に感情移入してしまう。そのカタルシスを台無しにする、歌ってみたが許せなかった。これはIAが歌うから最高なんだ。肉体という責任から逃れて初めて可能になる表現だから。誰でもないということは、誰でもあるということだから。

小学校でラノベを貸してくれた同級生にLINEを送ってみると、メカクシ団とかいう如何わしい団体(LINEグループ)に招待された。話したことのない人が居る手前、シンタローになりきって会話させられたのは当時ですら恥ずかしかったが、かく言う自分もそれ以降、髪を伸ばしたり、8月なのに青いパーカーを着ていたり、高校受験に差し掛かるまでは、LINEのTLで約80話に渡り、ある条件下で細胞が急激に活性化するウイルスを投与された子供達が成長期に入り、徐々に力の発現に気が付き、奇しくも集まってしまう―な小説を毎週連載していたり、面白い!次も期待しています!といったコメント数件に加えスタンプが50個くらいついたりしてしまっていたので、他の追随を許さないほど痛々しかった。こうして書いていると、一丁前に句読点や体言止めのリズム、言葉選びに気を利かせていた頃のノスタルジーが込み上げてくる。というか挙げていて気付いたが、今やっていることと何も変わらないじゃないか。更に詞まで書いて歌ってすらいるじゃないか。痛いだの寒いだのは、所詮熱を上げられるほどの愛情も技量も持ち合わせていなかった、退屈な大人の戯言だ。僕はあの頃だって今だって大真面目だ。

部活が忙しくなってグループは自然消滅したが、エネ役をやっていた女の子との初めての恋愛で甘酸っぱい思いをしたのも含めて、カゲプロは僕の春の中心にあった。彼女は高校の時に出したEPをわざわざ買ってくれた。今では1歳にも満たない命を育んでいる。出産を祝うついでに軽く、あの頃を思い出して話をしようと思ったけど、古傷が痛むようだった。カゲ厨ママには成りたくないよね。


皆して僕を置いて大人になっていく。文句ばかり垂れていた友達も、見ない間に随分と絡みやすくなっていたりする。僕は未だにお子様で、目も眩む様な夏の日を忘れられないでいる―


―延長戦で燃えている。


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