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観劇初心者が感じた2.5次元文化の魅力


「2.5次元」という魔法の国の作り方

 もうどれくらい前か忘れたが、テニプリに全く興味がなかった時、ニュース番組で2.5次元の特集をやっていた。その時にファンがインタビューで「2.5次元の魅力は何ですか?」というような質問を受けていて「キャラがそこにいます!いるんです!!」と答えていた。
 その時私は「舞台の上に立っているのは俳優であり、キャラクターではない。そう見えるはずがないだろう」と思っていた。まだ若かった頃の私。

 元々いい意味で狂っているテニプリファンに興味があり、テニプリを見始めたが最後、無事ミイラ取りがミイラになった。そのため、テニミュも配信では飽き足らず、劇場まで足を運び始めた。
 そこにいたのは確かに「推し達」であった。元気に飛び回る推しや、優しさの塊のような推し。客降りでは私と推し達が同じ「場」を共有している。視界に入れば記憶に残らなくても推しに認知される。ハイタッチなどができれば推しと触れ合うこともできる。すごい、ここは何次元なんだろうか。

 しかし、個人的な感想だが、ミュージカルの推し達と二次元の彼らは何かが違う。確かに同じキャラである。この違和感はゆらぎのようなものだろうか。

 また、会場に運んで確かに感じたのはである。映像で見ているだけではわからない空気の重さや一体感。これは何なのだろうか。

 更に、テニプリを見始めて非常に興味を持ったのはキャラを演じた俳優に対するファンのまなざしである。熱心なファンはキャラを演じた俳優のSNSなどをチェックする。しかも、代替わりしてその役でなくなったとしても、チェックを続ける人もいる。さらにオフの時だけでなく、テニミュではドリライなどで、キャラに扮していない素の役者を登場させる場合もある。観劇に来ている客のほとんどがキャラクターを見に来ているはずであるのに、なぜこのようなことが成立するのだろうか。
 個人的にはとても不思議なことだが、ここから見えてくるのは、ファンはキャラを演じているときだけに興味を持っているだけというわけでないということだと考える。

 もう間もなく私はテニミュに通い詰めることになるだろう。そうするとこの素朴な気持ちは忘れ去られるかもしれない。そのため以上三つの関心ごとを備忘録として残すためにここらで筆を執りたいと思う。
 また、完全に蛇足だがこの記事を書くきっかけとなった朝井リョウの小説とは!別の!好きな作品についても同時に記述する。色々計画が変わったのだ。許してほしい。

記事の構成

 まず、主題である2.5次元の三つの関心ごと「演劇における場の理論」「ファンは役者自身に投射する」「ままならない「ゆらぎ」の価値」の備忘録を記述する(キャラクターのいる場所)。それに伴い(伴ってない)、一番好きな小説を勝手に推薦させてもらう(朝井リョウの小説『籤』)。
 なお、「場」について、この言葉が一番しっくりくるが、専門的な言葉になってしまうため、同一の意味でなくなるが「空気」という言葉に置き換える。空気の重みが三次元的に分布しているという感じだろうか。
 なお、ゆらぎについてはなんとなく伝わると思うのでそのまま使用する。

キャラクターのいる場所

美術手帖 2016年7月号
思いのほか皆さん読まれていたようで驚いた。やるじゃん。

私の観劇履歴

 何の参考になるかわからないが、一応私の観劇経歴について記述する。
 私は本当に演劇を見てこなかった。なぜならハマってしまうと思ったからだ。すでに趣味に押しつぶされそうな状態でテニプリに手を出してしまったが最後、もうミュージカルは見るしかなくなった。いやこんなにハマると思わないじゃないですか。ハマるんだな~。
 見てきたものは以下である。

・舞台:1回
・オペラ:1回
・ミュージカル:1回(テニミュ関立)

 …しょぼすぎる(´・ω・`)因みに演劇でないが、バンドのライブやピアノなどのコンサートはそれぞれ5回前後、能は1回、歌舞伎や落語や狂言は興味はあるが行ったことがない。
 また補足だが、筆者はアイドルや俳優にハマったことがない(そもそも人の顔が覚えられない)。そのため、テニミュ俳優に関してアイドルなどでも同じような現象があるかもしれないが、ここら辺の事情がよくわからないので、そうであったとしたら「初心者だな」と思って笑ってください。後もしかしたら偉そうなことを言っているかもしれないですが、本当に何も知らない個人の感想として読んでいただけたらと思います。もし難しかったらもちろん読むのをやめてください。

演劇における場の理論

旧市民会館おおみやの大ホール
下記記事の芸術祭を見たときに撮影した

 高校の時、同じバンドが好きだった友人がいた。そのアーティストのライブが近くのさいたまスーパーアリーナを含め、東京や地方でも開催された。
 私は当然、たまアリに応募したが、私とは別に家族と行く友人は、なんと仙台でも応募した(たまアリでも応募したようだ)。
 なぜわざわざ遠くでも応募したのかと聞いたところ、チケットが当たりやすいからということに加え、複数回いけたら嬉しいし、仙台にも旅行できるとのことだった。

 正直当時は信じられなかった。なぜ同じライブに複数回行くのか?なぜわざわざ地方に行くのか?(旅行は旅行、ライブはライブで分けたほうが時間的に効率がいいと思った)
 さらに言うと、ライブなど行かなくてもライブビデオのほうが安いし何回でも見られるじゃんとも思っていた。

 この答えが最近テニミュに行き初めてわかった。空気を味わうためである。

 正直配信を見ている時は1st~3rdまで同じエピソード(関東立海ならそれだけ)などを見ると次第に飽きてきてしまっていた。しかし、実際に見に行くのなら同じ4thでも何度も見たい。少なくとも2回、できれば4回行きたい。なぜか。もちろん予習・本番・推し活・復習の意味もあるが、毎回同じ空気の演劇など存在しないと感じたからだ。

 こんなことを話したら友人たちに笑われてしまうかもしれないが、私は「気」は存在すると思っている。というか坐禅をしているとめちゃくちゃ感じる。表情は見えなくともイライラしていたり緊張している人の隣にいるとき、伝わってくることはないだろうか。もちろんこれは演者だけでなく、観劇者も含まれる。つまりあの現象が会場にいる人数分あるため、おそらく客が入れ替わるため、公演日や会場によって雰囲気も変わるだろう。実際テニミュに行っている方のほとんどが2回以上同講演に行く。さらに遠征する方も少なくない。

 私がそれを体験したのは1/16(火)の4th関東立海の幸村の病気の重篤さが判明する場面である。ちゃんとしたセリフは忘れたが、真田に対して「テニスの話をしないでくれと言ってるんだ!」と言い放つシーンである。
 見たときはもう心に穴が開いて、後半の内容がほとんど入ってこなかった。

 理由の一つとして実経験はあると思う。私事で大変恐縮だが、過去に交通事故で大腸が破裂し、左半身(と大腸は右も)ほぼすべてに後遺症と顔に13cmほどの傷が残っている。当然出血多量で生死をさまよった。
 そのため、私自身の過去の出来事と幸村のどうにもならない気持ちがオーバーラップしたのかと思った。しかし、この話は原作でもアニメでも本当に辛かったが、放心状態になるほどではなかった
 やはり演技が空気を変えたと思う。ミュージカルのプロならどこをどうしたからこうなった!と説明できると思うが、私にはその能力がない。そのため、このようなことしか言えないが、確かに空気が動いたのを感じた。
 また、そのシーンは休憩直前だったため、隣から感想が聞こえてきて、隣の人が「幸村と一緒に私も心の中で叫んだ」と話していた。おそらくこういう方が多かったのではないか。その人たちの「気」も空気に作用したと考えられる。

 さらに、配信では見えなかった部分も見える。漫画やアニメでは画面に映っている部分のストーリーしか見えないが、演劇ではスポットを当たっていなくともキャラたちは時間を共有し続けている

 なお、配信が悪いというわけではない。何度も見られることから、シーンを確認できるし、スイッチングもあり表情なども運が良ければアップで見られる。さらに、3rd比嘉中S2の永田氏の演技や、ドリライ1st?の鈴木氏の卒業シーンはとても感動した。ただ、こちらももちろん生で見たほうが感動しただろう。

 黙っていながらも、同会場の他のファンや推したちと同じ空気を共有できる。しかもそれは同じものなど一つとしてないのである。

ファンは役者自身に投射する

久保(川合)南海子 「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か
 今回紹介しきれなかったがめちゃくちゃ面白いのでみんな読んで

 私がテニミュも観ているファンの方々の行動で一番びっくりしたのは「キャラを演じた俳優を追いかけている」ということだ。
 一番わかりやすい2.5次元の魅力は前述したように、推しがそこにいることを感じるということだと思う。しかし、インスタなどで見る役者は役者自体の姿をしており、推しではない。
 最初このことを知った時、前述の通り、推しを演じる役者の解釈を知りたいのかと思ったが、それだけではないらしい。一体ファンたちは何を見ているのだろうか。
 これに関しては様々な理由があると思うが、個人的には「演じたキャラクターの姿を見続けている」というところもあると考えた。

 一般に2.5次元のファンたちは役者同士がプライベートでも仲良くしていることに対して一定の萌えを感じているようだ。
 例えば、私の推したちを演じている役者同士がインスタなどで互いの投稿に対してコメントをしたりするとXのTLが盛り上がる(わかる)。または代替わりした後も推しを演じた俳優が事務所を設立し、相棒もその事務所に所属するというニュースが出た時もフロアが沸いた(わかるよ)。
 もちろんキャラを演じたということからその役者自体のファンになったということはあると思う。しかし、それだけでは「推し達の絡み」に萌えるオタクの説明はできない。おそらく役者が推しの役を演じなくなったとしても、ファンはある程度推しの面影を見ているようである。

 昔仮面ライダービルドを演じた犬飼貴丈氏が「一度仮面ライダーになった以上、死ぬまで仮面ライダーであることがつきまとうため、常に子どものお手本でなければいけない」ということを話していた。
 おそらく2.5次元を経験した俳優も同様に、姿は違くともずっと誰かの推しであり続けるのかもしれない。

ままならない「ゆらぎ」の価値

朝井リョウ ままならないから私とあなた

 この記事を書こうと思ったきっかけとなった本が二つある。「美術手帖」と「ままならないから私とあなた」である。

 美術手帖は全人類が見ていると思うので省くが、後者の小説でのきっかけを語りたい。
 詳細は省くが、近未来のSFチックな小説であり、無駄なことは無駄ととらえるか温かみがあるから大事にしたいと捉えるかということが主題である。
 その小説に「電極を使用し制御することにより、誰でもプロとほぼ100%一緒の演技をすることができる」というものがあった。皆さんはもし今後この技術が出たとしたら賛成だろうか?それとも反対だろうか?

 個人的には、技術としては反対ではないが、全ての演技において使用するのはやめてほしい。というのも、個人的には文化的な対象に関しては「ゆらぎ」も魅力だと考えるからである。

 テニミュではキャスティングする際に、その役者に技術があるかどうかよりもキャラになりうる人かどうかを見るらしい。そのためベテラン俳優と比べてしまえば素人から見ても、どちらの方が技術があるかはわかってしまうと思う。
 私が観劇した時に感じたのはキャラではない俳優自身の部分である。例えば私の推しは大変優しい性格をしている一方で個人的には中々現れないが内面に攻撃的な部分も存在すると考えている。しかし、(私の考察が間違っていたり、鈍感である可能性も十分に存在するが)その役者が推しを演じている際にそのような牙の部分があまり感じなかった
 もしかしたらベテラン俳優が演じたらそうではないのかもしれない。しかし、完璧に演じることだけが魅力なのだろうか。私はキャラを演じながらも役者の存在が見えることに、魅力を感じる。自己分析が足りないためうまく言えないが、おそらく、個人的にはキャラの投影と共に演劇自体も楽しみたいという気持ちがあるようだ。そのためただ完璧に2次元を再現してほしいわけでないのだと思う。2次元でも3次元でもない2.5次元ならではの「ゆらぎ」に魅了されたいのだ。

 もしくは「誤読の自由」を楽しんでいる可能性もある。ド新規の私はもちろん、長く応援しているファンの方、役者や脚本家、その他公式に関わる人も誤読をしている可能性はある。漫画には編集という作業も入るためイデアは常に先生の頭の中にしかないのかもしれない。それぞれの解釈を聴くことにより、多角的な方向から作品を味わうことができるかもしれない。

 岡本太郎は「ある年齢までの子どもの絵は素晴らしいが、それを超えると周りの目を意識し始めてつまらなくなる」と話していた。これは完全に同意である。バスキアも確か子どもの絵を真剣に参考にすると話していたような覚えがある。
 周りを意識すると、客観的に見ることができるため、画力自体は上がるだろう。しかし、それにより自分の内面を忘れてしまうのかもしれない。
 同じように、一個人の勝手な願いだが、役者の皆さんには今しか出せない演技を精一杯見せてほしい。



 観劇に関しては以上である。下記からは今回取り上げた作品以外の朝井リョウの好きな小説があるので記述したい。え?関係ない?まぁまぁまぁ。気になる人だけどうぞ。(本当はままならないから私とあなたも感想を述べようと思ったが主題となくなってしまっていたので籤だけ残した)

朝井リョウの小説『籤』

朝井リョウ どうしても生きてる

 私は小説が好きだ。しかし、知識を得るために読書をするため、あまり小説は読む方ではない。ただ、小説は他の本とは違い、エピソードで思い出せるため、何か響くものがあれば他の本より自分に定着するとは考えている。
 その目的であれば朝井リョウの作品は非常に画期的である。表現が好きな小説は他にあるが、読み終えたときに「勉強になった」と満足する小説は他にはない。また、構成が巧みであり、驚かされる。
 私と氏の作品の出会いは正欲であるが、他にも5,6冊は読んでいる。気になるテーマだけ読むライトなファンである。

明転したのだ。私の立つ舞台。私の人生。

 ミュージカルつながりで書かせていただきたい。私がすべての小説の中で一番好きな作品は朝井リョウ『籤』である。「どうしても生きてる」内のトリを飾る短編であり、100ページ弱で読めるため、ぜひ全人類読んでほしい。ほんとに。図書館でもいいよ。他の短編はクセ強いからこれだけ読んでくれても大丈夫。

 語る前にあらすじを載せておく。

 大劇場のフロア長を任され観客とスタッフを一手に仕切るみのりが主人公。仕事を一歩離れると実は小さい頃からずっとハズレくじを引いてきた人生だ。男女の双子に生まれ、女性であったばかりに家事を押し付けられ、進学を譲り生きてきた。やっと仕事と結婚で自分の人生を歩み始めた矢先に249分の1の確率で障がいを持った子供を妊娠していることが判明する。彼女は引いてきたくじを運命としてあきらめるのか、それらを自分の強さに変えていくのか。

産経新聞 『どうしても生きてる』朝井リョウ著 市井の人々の胸中を描く

 あらすじには書いていないが、主人公は元々ミュージカルに感動し、友人たちと一緒に演劇部を立ち上げようとしていた。友人たちと見たミュージカルでは、役者たちが引いた籤に書かれた文字を消し、好きなように書き換えているように見えた。しかし、中学の時に母が亡くなり、双子の推薦と自分が女性であるからという理由で家事を押し付けられ、偏差値の高い学校に行くこと、さらに演劇を諦めるしかなかった
 もちろんテーマや内容もだが、表現もとても素晴らしい。ミュージカルや演劇ということを取り入れているため、明転・暗転などがリンクしている。

 正直、読んでほしいのであまり詳細に書きたくはない。しかし、これだけは書かせてくれ。

 ——悪いおみくじでも、あそこに結んじゃえば大丈夫になるから。

 お母さん。
 私、ひとつだけではうまく結べなかったけど、全部繋げられるような気がしてきたよ。初めてミュージカルを観たときみたいに、自分で籤を書き換えられるかもしれないなんて思えるほどの希望はないけれど、それでも。(...)

 お母さん。
 いつのまにか、全部の籤を繋げたら、蝶々結びだってなんだってできるくらいになってたよ。(...)

 全部繋げて、 リボンにするのだ。そうすれば、つらいときは包帯としても使える。人生を美しく包むのも、たくましく補強するのも、いつしかこの手でつかみ取っていた。

朝井リョウ どうしても生きてる 籤

 ここで言う外れ籤は先天性のものや自分では防ぐことができなかったものである。みんなだれでも人生には谷はあると思う。私も自殺を考えたくらい苦しんだ谷も何個かあった。

 しかし、自分ではどうすることもできない理不尽や不可逆的なことに対してずっと向き合ってきた。それで得られた包帯は自分を癒すだけでなく、他人にも巻いてあげることができると思う。そうやって誰かの外れ籤を集めて巻いてもらった包帯もたくさんある


 耐えられないくらいつらい出来事も悪い事ばかりではない。



 私も誰かに包帯を巻いてあげられたら。




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