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それでも、あきらめの悪いわたしは

2021.5.11

朝、歯をみがいたら、朝ドラだけ見てテレビを消す。
パンとコーヒーを摂取して、民宿をでる。

わたしは今、福島県双葉郡富岡町というところにいる。

ほんの2、3日前までは、いわきの自動車学校で免許取得のため休みなく運転していたので、その時間を含めると、福島にきてから一か月ほど経っている。
そろそろ関西弁が聞きたくなってきているのはホームシックになっているということだろうか。


それはさておき。

2011年3月11日の東日本大震災のあとに発生した東京電力の原発事故により、ここは長い間帰還困難区域になっていた。

今でも、バスに乗っていたら「これより先帰還困難区域につき立ち入り禁止」という看板とともに物々しいバリケードが目に入る。

これは富岡町の一部の話ではあるので、他のエリアは真新しい建物、それもだいたい低く建造されているものが、まさに同じタイミングに同じ業者が造ったであろう、同じような建築物がずらっと並んでいたりする。

比較的最近になってから居住の制限が解除された地域は、急激に土建屋さんが集まりゴリゴリ開発、建築される。

そのため道路は大きなトラックがめちゃくちゃ通る。
歩行者としては砂埃が非常につらいのと、歩道という歩道がだんだんなくなっていく(田舎ってだいたいそうでしょうけど)。


国道6号線沿いに歩いたり、横道にそれたりと、ひたすら歩く。

真新しい風貌の戸建てが続いたと思ったら、かつて学校の運動場だったであろう広い敷地や、家を取り壊したあとの空き地が広がる。廃炉資料館はコロナの影響で閉館されていた。

Googleマップを見ると、その近くの公園の中に、「富岡町東日本大震災慰霊碑」というピンがたっていたので、向かった。


公園のすみっこに、慰霊碑がぽつんとあった。
「パトカー双葉31号は保管するためアーカイブ施設に移転した」という看板がすぐ隣にたっていた。

あとでネットで検索して、はじめてそのパトカーの姿を見た。

大地震のあと、二人の警察官は港のほうへむかっていたところ津波に流され、一人は30km沖合で見つかり、一人は行方不明のまま。

水害のあとのボランティアにいったことがあるが、水は、土砂やあらゆるものを伴って襲ってくる。そのパトカーは、当時のすさまじさをまざまざと目に浮かび上がせるようなものだった。

仮に自分が、当時の大地震と大津波を経験していたとしたら、この原型をとどめていないパトカーを直視できただろうか?

正直、わからない。
自分がどれくらい被災したのか、家族や大切な人たちが犠牲になったかによって変わるのか。そもそも感じ方は統計に示されているような被害に比例するのか。

「残す」ということは、こんなにも痛みを伴う選択なのか。自分にできるだろうか。災害や原発事故の人災を後世に「残したい」と望んでいたわたしは、どんなに強い痛みだとしても、できるのだろうか。


慰霊碑だけが残された公園で、手をあわせた。

その瞬間は詳しい背景を知らなかった。お供えされている花やお供え物をみたら、地元の方が大事にしていると感じたから、ごく自然に体は動いた。


知らなかったことを知るたびに、いくつかの感情がはたらくことがある。

ひとつに、「なぜ今まで知らなかったのだ。」と悔いる気持ち。

次に、「自分ならどんな気持ちになるだろう」という問いが浮かぶ。

ここまではいつものこと。
でもこれだけではなくて、

「どうやっても全ての悲しみ苦しみを理解することはできない」という壁にぶちあたるような気持ち。

今回もこの感情が働いた。

よく優しさと間違える人がいるが、この場合のこれは違う。単に欲張りなのだ。


痛苦を目の前にしながらも生きる人のまなざしを感じたとき、ハッとする。同じ地を踏みしめながらも、ひとりで絶望し独りよがりになっている自分に気づくのである。


あきらめの悪いわたしは、こりずにまた福島にこだわっている。異様だと言われてきたが、異様なんだと思う。なぜこだわるかと言われたら、なぜ生きることに諦めないのか、と言われるのと同じことのように感じる。

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