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ALPS処理水のこと

(読んで気分悪くしたらごめんなさい。私はこういうニンゲンです。めちゃくちゃ長いけど福島県外の友人にももやもや共有したいので書きます。)

ここ最近、嵐のようなスピード感でスマホにニュース速報が入って来ていた。
でもちょうど余裕がなかったので、え、もう明日(今日)なんですね、と今さら衝撃を受けている。心がざわざわして仕方ない。書こうとすればするほどまとまらない。

漁業者や魚介類の加工品生産者、飲食店の方たちには本当に申し訳ないけど、「進んで」は食べられなくなるかもしれない。
少なくとも、頭の片隅でうーむと考えながら食べることになるのだろうと思う。友人が福島に遊びにきたときには、海鮮丼を食べる姿を複雑な思いで眺めることになるのだろうか。

事故後、ALPS処理水よりも危険なものが不本意に流れ出ていた。誰かのSNSで「じゃあもう一滴も流しませんという思考が正常でしょ?」というようなことを言っていた。(すみませんどなたか記憶にないけど引用します。多分せやろがいおじさん。)

組織や国に「人として」とか「道徳」を求めても、相手は人ではなくてシステム化された社会。私もまた、その経済を回すためのシステムの中で生きている、このどうしようもない状態。大阪から福島に通っていた時期にすごく感じた。
そして、福島に移住してからは、必要必要と言われる「対話」って、こんな状態でどうやったら成立するの?と心底感じる、今現在。

「世界の先進国ではすでに同程度のものは垂れ流しだ」ということもわかっている。
しかし、だからなに?という気持ちも否めない。
核抑止のために核兵器も持ってるだろうし、ということは核実験もバンバンしてたわな、なにより経済超優先なんだから先進国なわけだわな。
私は「日本の発展のために生きてます!」なんて、申し訳ないけど一度も考えたことがない。「未来の子どもたちのために生きてます!」とは言えるニンゲンになりたい。
単なるヒトとしては生きられない社会に、私たちはつくりあげてしまった。

今年は、大変貴重なご縁で水俣に二度訪問させていただいた。
豊かだったはずの海は魚が激減、水銀で汚染された魚もヘドロも埋め立てたが、埋め立ての耐久年数はとっくに過ぎている。水俣病患者に「認定」されるための訴訟は続き、むしろ認められるハードルが高くなっている。
「水俣病は終わっていない」ことを、恥ずかしながら行ってはじめて知った。

この夏休み、子どもたちと海に行った。職場の管理者は「今の海も入らせていいか迷うけど、汚染水が流される前に連れていきたい。これで最後かもしれないから」と。
子どもたちのほとんどが海に入るのがはじめてで、プールのときとは比にならないくらい楽しんでいた。
海はつながってるから、福島だけではなく、ほかの地域の子どもたちが海に触れる機会も、損なわれるかもしれない。

ある大学ではトリチウムを半分まで減らすことができる研究がされていた。
「コストがかかる」から、そのような実験を経て現場で採用されるのは難しいらしい。
おそらく、私が知らないだけで、もっと多くの研究が重ねられていると思うが、結局コストなのである。

岸田さんは全責任をもつと言っていた。
「責任」って、原発事故後、あらゆる当事者を疲弊させてきた言葉だと思う。
(これまで国の責任認めないにもかかわらずちょっと矛盾してるのはハテナマークが止まらんから横においとく)
あの言葉をきいて、どれほどの人たちがため息をついただろう。

安全か安全じゃないかの議論が本当にできているのか。
単なるトリチウム水ではなく、トリチウム以外の核種が混ざってるのだから、ひとつひとつ調べないのか。
うすめて流してOKという考え方は、高度経済成長期のあとの公害が多発した時期の考え方と、大して変わらんのではないですか。
結論、技術は発展しても、人類の中身は成長してないということですかね。だからこそ事故が起きたわけですけども。ええ。

この話題に触れて嫌な気持ちになる人がいるかもしれないので迷ったけど、今回の件は、あまりにもお偉いさんたちの内々で進められすぎていて、驚きが隠せず半分パニックになりながら書いてしまいました。
「理解を得る」とか、そんな言葉は簡単に使うべきではない。1対1でも、理解しあえることなんて非常にまれなんだから、「流すのは結局いつになるんやろ」とか、正直なんやかんや先のことやと勝手に思ってた…。

なにをどうするのかわからんけど、「さて、どうしよう」という声がずっと頭の中でぐるぐる回っている。
安全かどうかの話以前に、この進め方はちょっと、どう気持ちを処理すればいいかわからない。


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