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イギリスの商業革命から産業革命に至る経済的発展(工業化=近代化)のプロセスをイギリス本国と海外植民地との相互関係を中心に以下に説明

近代世界システム論 とは「近代以降の世界全体を単一の社会システム,すなわち世界資本主義体制としてとらえ,その生成・発展の歴史的過程を究明することによって,さまざまな政治経済的諸問題,とりわけ国家間関係,経済的な支配・従属,世界秩序の構造と変動などを全体的に究明しようとする理論。アメリカの歴史社会学者 I.ウォーラステインによって創始された。まず世界をアメリカおよび他の工業諸国から成る「中心」と,発展途上国から成る「周辺」に分けた上で,前者によって後者が搾取され,さらに両者によってその周辺が搾取されているとする。富める国々は,周辺地域から稼ぎ出した余剰のうちわずかな部分しか周辺地域に配分しない。他方,周辺に属する国々にも「周辺の中心」,すなわち世界経済システムの中心に位置する外国資本と結びついた特権階級や民族ブルジョアジーが存在する。このように世界を素描する世界システム論は,明らかにマルクス主義的な考え方を下敷きにしている。ここには,国家間に固有の競争や対立への言及はなく,資本主義社会における階級闘争の分析が世界全体に拡大・適用されるのである。」と定義されている。そこで、イギリスの商業革命から産業革命に至る経済的発展(工業化=近代化)のプロセスをイギリス本国と海外植民地との相互関係を中心に以下に説明する。
イギリス商業革命 とは、1660年代から1770年代の北米・カリブ海地域との貿易によって引き起こされたイギリスにおける急激な商工業の成長と、それに伴う社会・経済体質の変化である。また、イギリスの産業革命 とは、産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革(生活革命)のことである。
 カリブ海域との貿易では主として大西洋奴隷貿易及び奴隷制プランテーションを活用した。産業革命が進展した時代には、イギリスでは綿織物について輸入代替を行い、インドの綿織物キャラコの輸入や使用を禁止して、インド産綿織物と国内毛織物との競争を防いだ。やがて毛織物から綿織物へと保護育成を移して、綿織物の輸出が増加を続けて、18世紀末から19世紀初頭にかけて輸出額が2倍以上に上昇した。
産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。
経済史において、それまで安定していた1人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったともいえ、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をすることもあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に「産業革命」という用語が用いられている。
輸入代替 (ゆにゅうだいたい)とは経済学用語の一つ。これは国家が従来ならば輸入に頼っていたような製品を、自国で生産することにより部分的あるいは全面的に自給できるようにすることをいう。発展途上国というのは自国を工業化させるために輸入代替を行ってきた。輸入代替をするためには自国の産業を育成させるために、関税や輸入制限が実施され、それとともに国内市場は海外市場から隔離されて発展することとなる。このような輸入代替を行っている国家というのは、自国においてのある程度の需要が見込まれ、このことから自国において製品が生産された場合にでも政策により国内供給に割り当てることが可能であるからです。
 大西洋奴隷貿易 (英語: Atlantic slave trade)は、15世紀から19世紀までの間に、「三角貿易」という、大西洋を挟む3大陸が関与する貿易体制の中で行われた、アフリカの黒人を商品とする人身売買の貿易である。
奴隷制プランテーション と奴隷貿易
16世紀をつうじてスペインとポルトガルは、アジアばかりか西半球をも2分して支配した。これに対して、この地域でもイギリス・オランダ・フランスなどは、市拿捕などを利用して異議を唱えることになる。ポルトガル領となったブラジルで、すでに16世紀からアフリカ人奴隷による砂糖の生産がおこなわれた。西アフリカに多くの拠点をもったポルトガルにとっては、奴隷貿易そのものも重要な収入源となった。
市拿捕とは、政府から委任された民間の船舶が、敵国の船を襲撃し、捕獲する行為のことで、「私掠」ともいう。エリザベス1世(イングランド女王)などは、みずから出資し、スペインの銀船隊をねらわせた。その利益は莫大なものであった。私拿捕を実際におこなった人としては、ユグノーの指導者で、サン・バルテルミの虐殺の犠牲者コリニーやイギリスのジョン・ホーキンス(1532〜1595)、フランシス・ドレーク(1543頃〜1596)などが有名である。政府の特許状をもっていた点で、海賊とは区別されるが、実態はほとんど同じであった。16世紀後半にもっともさかんであったが、海軍の組織が整い、国際関係のルールも確立してくる18世紀後半には下火となった。19世紀中ごろ、国際会議で禁止された。
イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国では、17世紀中ごろ以降、アジアなどから輸入された茶やコーヒーの消費が急速に広がった。これに刺激されて、カリブ海の英・仏領植民地を中心として砂糖の生産が激増したほか、北アメリカの植民地でもタバコや藍・綿花などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
これらの生産には、はじめ先住民(インディオ)が使われていたが、彼らはアフリカやヨーロッパから新たにもちこまれた伝染病に抵抗力がなかったうえ、重労働を課せられたために、たちまちその人口が激減し、多くの部族が消滅してしまった。年季奉公人のかたちをとったヨーロッパからの白人の移民も、労働力としては人数に限界があった。
年期奉公人とは、渡航費を免除されるかわりに、アメリカのプランテーションで一定年数、強制的な労働に従うことを約束して渡航した移民のこと。独立までのアメリカ13植民地へのヨーロッパからの移民の過半数は、こうした移民であったが、砂糖植民地では比較的少なかった。
このため、砂糖プランテーションを中心に黒人奴隷が使われるようになり、その大量供給が不可欠となった。ヨーロッパ各国がきそって西アフリカに拠点を求め、奴隷貿易に乗りだしたのは、このためである。
 保護市場(保護貿易)
保護貿易 (ほごぼうえき、Protectionism)とは、国内取引と国外取引の間に関税などの交易障壁を設けた状態における貿易のこと対義語は自由貿易

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