見出し画像

マイ ばあちゃん

1ヶ月ほど前、実家の茨城県に帰省してきた。

久米島からなのでそれなりに時間もお金もかかるが、息子たちが生まれてからは毎年1回は帰るようにしている。

幸いなことに、実家は茨城空港から30分くらいのところにあり、那覇空港からスカイマークが飛んでいるため、息子たちを連れて東京で電車の乗り換えをせずに済むのでとても助かっている。

例年はゴールデンウイークに帰省しているが、今年はコロナでとても叶わなかった。その後も7月に変更するも流れ、やっと9月に実現できた。


今回のコロナ流行で一番に心配したのは、ばあちゃんのことだ。

ばあちゃんは今年で90歳になる。

コロナでなくても、風邪をこじらせて肺炎にでもなったら命に関わる。

ただ、実際はとても元気で、風邪をひいて寝込んでいたなんていう記憶はない。

朝早く起きて畑や田んぼの手入れをして、いつもせかせかと働いて回っていた。

今回はそんなばあちゃんについて書こうと思う。


私にばあちゃんはふたりいて、ふたりとも健在である。今回書くのは、一緒に住んでいた父方のばあちゃんの方である。

私は5歳下に弟がおり、母の手は幼い弟のほうにいくので、私と兄の世話はをするのは自然とばあちゃんになった。

小学生くらいには、私はばあちゃんと一緒に眠っていた。8畳の部屋に布団を2つ並べて眠った。

ばあちゃんは「安寿と厨子王」や「ヤマタノオロチ」など、いろいろな昔話をしてくれた。結構怖い話なのだけれど、ばあちゃんの気の抜けた擬音語のせいで全然怖くなかった。

寒い夜には「冷てぇ足だな」と私の足を自分の足で挟んで温めてくれた。人から温もりをもらうのはとても気持ちがいいなと思いながら眠った。
大人になってから、先に温かい布団に入っていた私に恋人が冷たい足を押し付けてきた時があり、私はばあちゃんを思い出した。相手の冷たい足を温めてあげたいという気持には全然ならずに、「冷たいからやめてほしい」と思ったのは、愛情の差なのか、私とばあちゃんの懐の深さの差なのか。

雷の音に怯える私たち兄妹に「くわばらくわばら」という呪文を教えてくれた。兄妹で息もつかずに「くわばらくわばらくわばら…」と言っていたら、怖さもどこかへ行ってしまった。

いい思い出ばかりではない。

幼稚園生の時、クリスマスに「サンタさんに何をもらおうかな~」とウキウキして言ったら「あれはお父さんとお母さんがくれてんだど」と暴露されたことは忘れられない。

高校生の時に飲みすぎて寝ゲロしたのを、片付けてくれたのもばあちゃんだった。(おかげで親にバレなかった)ばあちゃんは文句も言わず、青い顔の私を心配してくれていた。
私が将来おばあちゃんになって、酔っ払った孫の吐いた物を片付ける時、どんな気持ちがするのだろう。そう思うたびに申し訳なさで胸がいっぱいになる。

第二次世界大戦のことは大東亜戦争と言っていた。戦争のときはばあちゃんは10代前半の少女で、アメリカの飛行機に銃で追いかけられた話や、防空壕に隠れた話をしてくれた。
私にとって、戦争は本やテレビの中の話で、目の前のばあちゃんがそんなハードボイルドな経験をしているなんて信じられなかった。ばあちゃんがその時に撃たれて死んでいたら、私は今ここにいないのかと不思議な気持ちになった。

じいちゃんは私が中学生の時に亡くなった。
じいちゃんは私たち孫には優しかったが、客観的に思い出しても短気で偏屈で、ばあちゃんとはとても仲が悪かった。一緒に笑い合っている姿は見たことがない。
でもばあちゃんは毎日ご飯をつくってあげて、じいちゃんががんで入院して亡くなるまで看取った。
中学生だった私は自分の毎日で手一杯で、ばあちゃんの気持ちなんて全然考えられなかったけれど、結婚に憧れはある年ごろだったので「人生ってなんだろうなぁ」と思ったことは覚えている。

ばあちゃんは養豚をやっていて「この家はじいちゃんとばあちゃんが豚で建てた」と言っていた。私が小学生くらいまでは庭の豚小屋に豚がいて、時々逃げた豚を探しに行っていた。
ある夜、一緒に探しについて行った。ばあちゃんと一緒に集落内の道をてくてく歩いて、ご近所さんの裏庭でガサガサと音を立てている動物を見つけた時は、興奮と恐怖で鳥肌が立った。
ばあちゃんが細い棒で豚のお尻を叩いて、家の方向へ追うと、豚は素直に歩いていった。

ばあちゃんは私のことは学校の勉強でも、絵でもなんでも褒めてくれた。

エルトン・ジョンの自伝的映画「ロケットマン」で、エルトンは寂しい少年期を過ごすが、おばあちゃんだけは彼の味方でいてくれた。彼の才能を信じて音楽学校の入学試験を受けるように勧め、試験会場に同行したのもおばあちゃんだった。エルトンの暗い少年時代の思い出の中で、唯一おばあちゃんの存在だけが温かい光がさしているように思える。

私は高校を卒業して家を出てからは、ほとんど実家には帰らなかったが、次男の出産のときには長男を連れて里帰りをした。

毎日隣の家のおばちゃんが来て、ばあちゃんとお茶を飲んでおしゃべりしているのに驚いた。一体何をそんなに話すことがあるのだろうか。

ばあちゃんは耳が遠くなっている以外は相変わらず元気だった。そして相変わらず私の体を心配してくれた。次男を出産してからは私が家事をやっているのを見かけると、しょっちゅう「寝てろ」と言った。
ばあちゃん自身はお姑さんが厳しい人で、産後もすぐに農作業をしていて、子宮脱になってしまったらしい。だから私の体をすごく心配してくれた。
母乳の出がいいように、野菜がたくさん入ったみそ汁を毎日つくってくれた。みそ汁のおかげかは分からないけれど、母乳は順調に出て、次男はふくふくと育っていった。


こんなにたくさんのものを受け取って、私はばあちゃんにどんな恩返しができるのだろう。

お金をあげても喜ばない気がする。なぜなら帰省の時には未だに私にお小遣いを渡してくるから。いらないと言ってもくれるので、もらっているけれど使いにくい。

以前お土産にお菓子をあげたら、毎日家に来る隣のおばちゃんとの茶菓子にする、と喜んでいたけれど、隣のおばちゃんは脳梗塞で倒れて、今はデイサービスに通っていてもう家には来ない。

恩返しはなにも思いつかないので、結局年に一度は息子たちを連れて帰省し、ひ孫の顔を見せることにしている。


時々、ばあちゃんが死ぬことを考えて怖くて眠れなくなる夜がある。

ばあちゃんのお葬式に出るために、泣きながら飛行機に乗っている自分を想像する。

縁起でもないことだと自分でも思う、でもいつか必ず起こることだ。

ばあちゃんにとっての幸せが何なのかもわからない。
「幸せって何か」などと考える人ではないと思う。

でも、勝手な想像をするならば、「ただ、あるがままにあること」がばあちゃんの人生の幸福論なのではないかと思う。

畑を耕して、種を蒔いて、芽が出て、雑草を抜いて、花が咲いて実がなる。豚だって同じだ。餌をあげて、子を産ませて、大きくする。

ばあちゃんの人生は戦争や、他にもきっといろいろなことがあったけれど、この繰り返しが基盤となっていて、この繰り返しの中にこそ幸せを感じているのではないかと思う。

地球が公転するように、大きな流れに身を任せる。

辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、大きな流れの中で溶け合い、ひとつになっていく。

私はばあちゃんを見ているとそう思うのだけれど、ほんとうはばあちゃんはぜんぜん違うことを考えているのかもしれない。

今度帰省したときには、いろいろ聞いてみようと思う。耳が遠いからうまく伝わらないかもしれないけど、内容なんてどうでもいいのかもしれない。

画像1

「写真撮るよ~」と言ったら、おめかししてきたばあちゃん


画像2

見送ってくれるばあちゃん&おとうと(元ヤン)


※高校時代の寝ゲロにまつわるエピソードはフィクションです。

サポートいただけると嬉しいです!励みになります!