紫陽花の社

紫陽花や赤に化けたる雨上り 正岡子規



ビルとビルの間の間口十メートルにも満たない都会の隙間に神社である。両側のビルのせいで日当たりはもとよりあまりよくない上に、間口の割に奥行きのある敷地には戦前から残る立派な木立があって益々薄暗い。通りに面して石造りの鳥居は建っているけれど、強い日差しに慣れた目には塗りつぶされてしまって、よくよく注意していないと気づかずに通り過ぎてしまう。特に評判になるようなご利益もないため、参拝者はあまり多くない。それでも、一旦鳥居をくぐればやはり神社らしい清らかさがあって、境内はひんやりと涼しく、下界の雑踏とは別世界のように森閑としている。石畳の細い参道の両側には紫陽花が植えられ、ちょうど今が見頃だ。もっとも、わざわざこんな日陰の紫陽花を見物に来る酔狂な人間などいないだろうが、と、そこにひとりの女が現れるのだ。鳥居の外側で白い日傘をたたみ、丁寧におじぎをする様子はまことに美しい。赤に近いオレンジのワンピースを着て、髪は後ろで縛り、三十代も後半といったところか。手水舎に立ち寄って身を浄め、それから参道に立ち返ってゆっくりと歩いてくる。紫陽花を眺めて時折足を止めた。今は青い紫陽花の萼。商店街の印刷所の奥さんが手入れをしてくれるお陰で毎年きれいに咲き誇る。本当は日向の方がいいんだけれど、と奥さんはよく話していたが、だとすれば肥料やら剪定やら諸々、よほど手間暇をかけているのだろう。そんな紫陽花が朝方の雨でなお一層瑞々しい。女は存分にその美しさを楽しんでから社の前に立った。財布から五百円硬貨を選び賽銭箱に投げ入れる。音が煩いと苦情が出たために鈴は撤去されてしまっていて、それを鳴らせないのが残念だ。女はただ心静かに頭を二度下げたあと、ゆっくりと二拍手。そうして徐に目を閉じた。その願いごとに耳を傾ける。




なるほど、幸せになりたいのだ。幸せになるために彼と別れようとしている。そうでなければ、彼がかねてからの約束どおり離婚して身ぎれいになってくれますように。女の願いはよく分かった。けれど問題は、その男の妻が先日、やはり同じように問題の解決を頼みに来たことだ。あの酒場の尻軽女をなんとかしてくれと。彼女たちの求めるものは完全に相反していて、あちらを立てればこちらが立たず。さていったいどうしたものか。目の前の女は随分長い間手を合わせている。子供が出来たとさえ訴えるのだが、それはたとえ神といえど、簡単に答えを出せることではなかった。動揺して、境内に転がっていた空き缶が音をたてる。女はなおも祈り続けている。ならばこうしよう。悪いのは信仰心のかけらもないその男だ。第一、地元で生まれ育ったくせに、夏休みのラジオ体操の時くらいしかこの境内に足を踏み入れたことはない。彼に罰を与えればそれで八方丸く収まるのではないかと考えていると、そこで女が言うのだ。

「お願いです」と、声に出して。「ふたりの、いいえこの子と三人幸せに暮らせますように」




やはりそれが女の本心なのだろう。むろん、全ての願いを聞き届けられるわけではないが、出来ることなら叶えてやりたい。思い余って普段は馬鹿にしている狛犬たちに相談する。すると、繍球を抱えた雄の方が放っておけと言い、口を閉ざした雌は怒りに震える。いつだって割を食うのは女なのだと。果たしてそうだろうか。

やがて女は目を開け、最後にもう一度頭を下げる。ちなみに、妻の賽銭は五円だった。賽銭の額で判断が変わることはまずないが、それにしても百倍である。百倍は大きい。

美しい方の願いを叶えてやればいい、そう雄の狛犬が言う。

ほらね、男っていつもそう。

雌の狛犬がむっとしている。

そう言うなよ、と雄が繍球を放った。受け取った雌はそれを返す。古来中国の伝統的な求婚の儀式だった。この狛犬たちはとっくに結婚していると思い込んでいたが、そうではなかったようだ。

絶対に浮気はしない、と雄が誓っている。

どんなに可愛い子と出会っても、と雌が問いただす。

もちろんだ。

勝手にやっていればいい。と、見れば女はすでに背を向け、今夜の仕事に向かうのだろう。足早に立ち去りかけて、参道の真ん中あたりで立ち止まる。周囲の見回して、誰もいないことを確認しているようだった。いったい何をしようとしているのか。女は満開の紫陽花の前にすっとしゃがみこみ、ワンピースの裾が苔むした参道を撫でる。やめてくれ、と願った。その紫陽花を切らないでくれ。

だが、願い空しく女は鞄から剪定鋏を取り出して一枝、また一枝と切っていく。ご丁寧に鋏まで用意して、おそらく店のカウンターにでも飾るつもりなのだろう。印刷屋の奥さんの顔が何度となく脳裏を過った。女はだが、遠慮というものを知らない。随分沢山の紫陽花が切られてしまって、その一角だけがひどく情けない。

女は鳥居を出たところでもう一度、頭を下げて挨拶をした。

美しい方の願いを叶える。それはまんざら悪くない考えかもしれなかった。



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