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薔薇の花がこぼれる

子供の頃、この家の玄関が本当に嫌いだった。蹴破ってしまえるくらいに薄っぺらなドア、ドアノブをガチャガチャとやればうっかり開いてしまうこともある頼りない鍵、黒ずんだ合板、ステンドグラスを模したシートを貼った小窓、なにもかもが貧しく惨めだ。けれど、貧相なだけならまだ我慢もできただろう。そんな玄関を縁取るように咲く大量の薔薇の花が、あたしは恥ずかしくてたまらなかった。しかもピンクの。こうした花は、例えば川向こうの住宅街に佇む瀟洒な洋館の、門扉付きアーチに絡まっているのが相応しい。あるいは芝生を敷き詰めた広いお庭の一角に。公道と建物の間の僅かな隙間に無理やり植えるようなものでは決してない。それなのに、母はずっと昔、そんな場所に薔薇を植え、しかも丹念に手入れをしながら接木をしていったものだから、あたしが物心ついた時にはもう近所でも評判になっていた。薔薇だけ見れば確かに見事で、二階の軒下あたりまで伸びて絡まった蔓に大人の拳くらいの花を次から次へと咲かせた。そうして散った道路上の花びらを毎朝掃き集めるのが私の仕事になった。未練がましく匂いばかり残して黒ずんでいく無数の柔らかな花びらは、なんだかひどく不潔な感じがしたものだ。家の前を箒で掃いていると、今年も綺麗に咲いたね、などと頻繁に声をかけられるのも苦痛だった。そんな思いを母に直接伝えたこともあるが、「いいじゃない、みなさん喜んでくださってるんだから」と、取り合ってはくれなかった。それどころか、彼女は益々精を出し、薔薇の花は年々増えていった。彼女から薔薇を取り上げることは到底できそうもなかった。だからあたしは、高校を卒業すると家を出た。家を出るためだけに必死に勉強をして、都会の大学に進学した。いまだに薔薇の匂いを嗅ぐと、世界中に揶揄れているような気持ちになるのはそのせいだ。




母が嫌いだったわけではないが、ただなんとなく、そりが合わなかった。母が好きだと言うものをあたしは好きになれなかったし、あたしが興味を示すことに母は必ずといっていいほど否定的だった。中学生になってサックスを始めようとした時にはピアノになさい、ピアノならひとりで完結できるじゃないの、と母は言った。女の子らしくない、とも。ヨーロッパのメタルバンドにはまってファッションも若干そちら寄りになっていくと、みっともないからやめなさいと懇願された。高校生になって髪を刈り上げたら母娘の縁を切ると脅され、大袈裟ではなく、ピアスの穴で泣かれたこともある。ただまぁ、少々大き目のピアスホールだったけれど。それでも多分、母は娘を愛していてくれたのだろう。あたしが、母の望む娘になり切れなかっただけだ。会うたびに母をがっかりさせてしまうのが心苦しくて、あたしは次第にこの家から距離を置くようになった。ここ数年はほとんど帰っていない。母からは時々電話があったが、話すことはだいたいいつも同じだった。薔薇の話しと、同級生が結婚するらしいという噂。噂が本当だったこともあれば、そうでないこともあった。要するに、あなたもいい歳なんだから、と彼女はそう言いたいのだった。何度となく本当のことを話そうともしたけれど、床の抜けそうな陋屋にピアノを置こうとしたあの母が、理解してくれるとは思えなかった。だから今回のことで、洋子が一緒に行きたいと言い出してちょっとした口論になった。半日ほどの気まずい時を過ごし、結局はあたしも覚悟を決めた。よりによってなんで五月なのよ、とは思ったけれど。

「だって薔薇が満開よ、きっと」

「いいじゃない、見てみたい」

そして今、そのピンクの薔薇を実際に目にした洋子は、想像以上だと喜んでいる。



「で、立ち退きってどういうことなの」

もともと日当たりはあまりよくなかったけれど、記憶のなかにある雰囲気より一段と暗くなった感じのする居間で久しぶりに見る母は、意外に元気そうでまだまだ老け込んでもいない。

「沙穂里にそっくりですね」などと言われて無邪気にはしゃいでいる。

「この子が私に似てるのよ」

それはそうだが、ほんの数日前は泣きながら電話してきたくせに、これでは心配してわざわざ新幹線に乗って来た意味がない。少し苛々してそう言うと、

「だって」と、母は年甲斐もなく本当に唇を尖らせるのだ。「道路拡張でうちの薔薇ちゃん全部切るって」

「薔薇ちゃん」

「全部よ、全部。私がどれだけ大切に育ててきたか、あなただって知っているでしょう」

もちろん、知っていた。知っているからこそ、

「仕方ないでしょ」と、冷たく突き放した。「いいじゃない、こんな家でも立ち退きだったら幾らか貰えるんでしょ。新しいところでまた育てれば」

「そういう問題じゃないじゃない」

「ですよね」と、洋子が言う。

すると母は、まるで好物の餌を目の前に置かれた飼い犬のようにその言葉に飛びつき、あとはひたすら洋子を相手に薔薇の話をする。最初に薔薇の苗木を植えたのが実父だったことを、あたしはこの時初めて聞かされた。

「そうだったの」と、思わず口にしたが、母はまるで気にかけず話し続ける。

洋子を連れてきて本当によかった。結局、母はただ話を聞いてもらいたかっただけなのだ。もとより、しがない中小企業の、しかももうじき辞めようとしている不良会社員に解決できるような問題ではなかった。

洋子に向かってひとしきり感情を吐露してしまうと、母はすっかり気が晴れたようで、ねぇ、せっかくだから何か食べに行きましょうと言う。

「この町はお魚が美味しいのよ。支度をするからちょっと待ってて」



母はそれから、あたしがまだここで暮らしていた頃に一緒に行ったいくつかのお店の名前をあげ、あそこは味が落ちた、値上げした、潰れちゃったのよなどと言いながら上機嫌で着替えをし、薬の袋が積み上げられた台所のテーブルに座って簡単な化粧をする。洋子は先に出て、薔薇の花をスマートフォンで撮影しているようだった。しきりにシャッターを切る音とともに、ほんとに綺麗、と感心する言葉も聞こえてくる。

「いい子ね」と、母が唐突に言ったのはそんな時で、「一緒に暮らしているの」

友達、としか紹介していなかったあたしは驚いて口ごもる。

「いいじゃない、今どきっぽくてかっこいい」

「かっこいいって、なにそれ」
そんなに軽く言わないでよ、とは口に出せなかった。

「みんななるようになるわよ」

けれど母の口調は決して投げやりなものではなく、ただ事実を事実として受け止めているようだった。母の、そして他人の目を一番気にしていたのはあたし自身だったのかもしれない。

「やっぱり末広さんにしましょう」と、嬉しそうに言う母の後に続いて家を出る。

「お寿司なんて、でも高いんじゃない」

「いいじゃない、たまのことなんだし」

なんでもいいですよ、と笑う洋子と母が並んで歩いていく。あたしはその大嫌いだった玄関に鍵をかけ、彼女たちを追いかけようとして立ち止まり、振り返ると大ぶりの薔薇の花びらが一枚、また一枚とこぼれるところだ。







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