つばくろ②
(承前)
「なにかあげた方がいいかしら」
随分と長くなった日も暮れる頃、冷蔵庫のなかのあり合わせで夕食を作り始めた妻が言った。キッチンは居間と繋がっているのでその窓からも小さな庭と駐車場が見える。南瓜のシチューを食べ終えた彼らはブロック塀にもたれ、男はギターをつま弾き、女の方はスマートフォンを弄っている様子。
「なにかって」と、私は居間との間に設えたカウンターに手を付いて訊ねる。家を新築するにあたって私がリクエストしたのはこのカウンターだけだった。それに合わせてスツールにもこだわり、古道具屋で見つけたアンティークのランプとプラモデルの箱、それにゲームソフト…と、そこで思わず大きな声が出た。
「おいシュウ、ここにおもちゃを置くなっていつも言ってるだろ」
北陸新幹線かがやきのプラモデルは強請られて買い与えたものだが、その部品のいくつかがカウンターに散乱していた。
「ねぇ、おかずとか少し多めに作っておすそ分けした方がいい」と、妻がさらに訊く。
「そんな必要ないだろ。南瓜のシチュー、ちょっと味が薄いけどなかなか美味かったよ」
「食べたの」
妻は驚き、呆れている。
「勧められて断るのも悪いだろ」と、私は答えておいてからもう一度息子を呼んだ。
「そんなに怒鳴らないでよ、みっともない」
そうして妻は、窓の外を気にしながらもキャベツを刻む作業に戻った。
基本的に、彼らにしてあげられることはほとんどない。特に食事については様々なルールがあるようで、私たちが普段食べているようなものはまず食べられないのだ。駐車場の一角とスマートフォンの電源、それに水とトイレを借りられたらそれで彼らも十分に満足するはず。放っておけばいいと、ホットプレートでお好み焼きを焼きながら話した。
「あいつら、でもなんか色々盗んでくらしいよ」
そんな息子の言葉に、私は少なからず驚いて、
「おい」と、つい声を荒げてしまう。
「だってみんな言ってる」
中学でそういう噂が蔓延っているのだろう。だとしても、よく知りもしないことを喋るのは良くないと窘めると、
「とにかく早く出てってもらってよ」
何も悪いことはしないかもしれないけれど、気になって仕方がないと妻は言うのだった。
「そうだな」
義母だけが我関せずとばかりお好み焼きを頬張っている。その口元にはソースと青のりがべったりと張り付いていた。
「あたしはマヨネーズ嫌いだわ。いったいいつからお好み焼きにこんなものかけるようになったのかね」
「すみません、お義母さん。つい」と、私が謝るより前に、
「昔からよ」
妻がそう切り捨てた。
その夜、私は例のカウンターでいつものように酒を飲んだ。ランプといっても光るのは電球だが、その灯りの下でウィスキーのグラスを傾けるのが今となっては唯一の楽しみだった。レースのカーテンに街灯の光も溜まっていて、それほど暗くはならない部屋にサイドボードの上の置時計の音が異様に大きく響いている。とうとう一度も訪れることのなかった霧深いアイラ島の風景を思い浮かべながら、私はそのモルトの香を口に含んだ。本当にもう可能性はないのだろうか。蒸留所で原酒を味わってみたいというその夢は叶わないのか。明日、会社に出かける前に彼らと話すべきかもしれない。
近所の家のガレージに住み着いたつばくろがその家をほとんど占拠してしまったという話は、一緒に昼飯を食べに行った蕎麦屋で部長から聞いた。
「それで、どうなったんです」
「大変だったんだよ。合鍵まで作ってやりたい放題、ちょっと何か言うとすぐにバビロンに毒されているとかなんとか、奥さん、すっかりまいっちゃってね」
結局、その家族は家を売り払って引っ越したのだと。
「とにかく早めに何とかした方がいいよ」
市役所に相談窓口もあったはずだと部長は教えてくれる。
「そうですね」
その朝、新聞を取りに出たついでに路上に停めっぱなしの車に異常がないかどうかを確認し、駐車場へ回ってみるとつばくろの男女はまだ眠っていたのだった。ふたりで一枚の毛布にくるまってまるで蓑虫のように幸せそうに転がっているのを、流石に起こすのは忍びなかった。出社する時には時間に余裕がなく、車に乗ろうとすると彼らが笑顔で近づいてきたから、簡単に朝の挨拶を交わしただけだ。
「お仕事ですか」と、男に訊かれて、つい皮肉な口調になった。
「そうだよ。君らはいいね、自由で」
すると男が、
「今日は街まで行きます。箒を売って食料を調達しないと」と、そう言うので、ちょうどいい、乗せていってやれば車のなかで話ができると誘ったのだが、残念ながら断られてしまった。環境問題でも気にして車も否定しているのかもしれないが、だとしたら非合理的だった。彼らが乗ろうと乗るまいと、私は車を出すのだから。いずれにしろ、結局、タイミングが合わなかった。昼飯のあとで妻に電話をすると、彼らは荷物を置いてどこかに出かけたようだと言う。もしかしたら会社の近くにいるのかもしれないが、わざわざ探すつもりはなかった。
その日は残業になった。帰宅したのは午後9時を回っていたが、車を路上に停め、玄関に向かう前に駐車場を確認するとそこに妻がいて、
「あなた、おかえりなさい」と、珍しく笑顔で、むしろ笑いながら迎えてくれる。
「酔ってるのか」
「ちょっとだけよ。だって彼の歌、あんまり素敵なんだもん」
「なんだもんって」と、今度は私が呆れる番だった。
「いいじゃない、ワイン一杯くらい」
妻は、ネットで調べてつばくろが食べられそうな有機野菜にサラダを作って差し入れたのだという。そにお礼の歌を聴かせてもらったのだと。
「飯は」
少しきつい言い方になったのかもしれなかった。ふいに真顔に戻った妻は持っていたグラスを私に押しつけ、
「ありますよ」と、居間へと上がる階段を上っていく。
「すみません」
男はギターを手にしたままそう言って詫びた。
「サラダが美味しくて」
その呟きが、初めて聞いた女の声だった。実はそれまで、口がきけないのではないかと疑っていた。あるいは吃音か何かを気にしているのかと。
「よかった」
私は努めて優しく微笑み、それから続けた。
「君たちに話があるんだ」
春とはいえまだ風は冷たい。新月が過ぎたばかりだったが夜空は霞んでいて星はあまり見えなかった。
「なんですか」と、ふたりが身構えるのが伝わってくる。
「いや、そうじゃない」
君たちはいつまでここにいてくれてもいいんだ、と。
「ただもう、私には時間がないんだよ」
(続く)
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