髪を編む
どこか別の世界で救急車が急いでいる。サイレンが遠く、僕らはふたり、水のなかでそれを聞いているようだった。
「誰かが運ばれていくのね」と、ゆっくり息を吐きながら彼女が言う。
部屋は暗く、いつか彼女がリサイクルショップで見つけて買ってきた鏡台の前にだけ灯りが点いている。そのせいで目に見えるものは全て仄かに青みがかって見えるのだが、よくこんな照明で普段、化粧ができるものだと思う。もっとも、長らくそんな姿は見ていない。
「心配して一緒に乗っている人もきっといるよ」
「だといいけど」
午前二時をまわっている。こんな時間にいったいなにが起こったのだろう。そろそろ近所の公設市場が動き始める頃だが、今のところまだ、トラックの出入りする音も、おばあたちが話す声もここまでは届いてこない。24時間営業のそば屋の裏にある古いアパートの三階だ。こうして周囲が静まり返っていると、そば屋の前の自動販売機が時折落とす缶の音にさえ驚かされたりするのだった。
「誰にだって心配する人はいる」と、僕の口調は思いのほか強いものになる。「君にもね」
「どうかな」
彼女が呟くと、僕の目の前でじっとしているその頭がとても儚く感じられて不安になる。
「いるさ。僕なんかよりずっとたくさんの人が君のこと思ってるじゃない」
すると彼女は、「兄さん」と何か言いかけて止めた。
「何度も言うけど、僕は兄貴じゃないよ」
なんだかチンピラかテキ屋みたいだと笑う。
救急車のサイレンはもうどこかに消えてしまった。救急車を呼ぶくらいだからまったくの無事ではないだろうが、大したことなければいいと願いながら、僕は鏡台の前に座った彼女の背後に立ち、手のなかの長い髪を梳かしてはまた編みこんでいく。
髪を編んで欲しいの、と彼女が言いだしたのは今朝、日付の変わった今となっては昨日の朝のことで、僕はそれをいい兆候だと捉えた。
「髪を編む夢を見たの」
夢占いなどに興味はないけれど、少なくとも、自分からなにかを求めるというのは生きる力であるはずだった。決まっていた全てのライブをキャンセルして部屋に引き籠って以来、初めてのことだ。
「どこか東南アジアの路上でね、おばさんに編んでもらっているの」
そういう夢だと、彼女は話した。
「ナムプラーみたいな匂いもしたからきっとバンコクじゃないかな」
「匂いつきの夢なんて見たことないな」と、僕は答える。「いいよ。で、どんなふうに編めばいいの」
彼女のオーダーは、数十本ずつに分けた髪の毛を三束使って細かな三つ編みにしていくというものだった。所謂ブレイド。確かにバンコクの路上でそういう仕事をしているおばさんを見たことがあるが、素人の僕が全ての髪の毛を編み終えるのにいったいどのくらいの時間がかかるのか、見当もつかなかった。
そうして始めた作業は、何度かの休憩を挟みながらもう十五時間以上も続いている。最初のうちは手探りで要領が掴めず、編み終えた束が同じ方向に流れるように調整するのは一苦労だった。編んだものを一旦解いてやり直すこともしばしばで、夕方くらいになってようやくコツが掴めてきた。途中で数えるのを止めてしまったけれど、出来上がった三つ編みの数はすでに五百本を優に超えているだろう。
「なかなかいいよ。ジャマイカのシンガーみたいだ」と、半分は自分を鼓舞するために言う。「なんとか終わりが見えてきた」
もう半分はもちろん、彼女の気持ちを少しでも明るくしようとしてのことだが、どうやらまんざらでもないようで、
「こんなあおっちろい顔したジャマイカ人なんていないけどね」
彼女は少し照れくさそうだ。
「ステージでも映えるよ。きっとみんなびっくりする」
そう口に出してしまってから、僕はすぐに後悔をする。実のところそれは、黙々と髪を編みながら、この気の遠くなるような作業が終わったら頼みがあると、彼女に何度となく言いかけて飲みこんできたことから出た言葉だった。どんな小さなものであれ、彼女にプレッシャーを与えたくはなかった。だからといって、例えば僕が、いや、そういう意味じゃなくて、などと慌てて弁解すれば、それはそれで彼女は気遣いを重く感じるかもしれない。
「そうかな」
そう言って俯いた彼女の頭を引き戻し、僕はわざと大袈裟に、頼むよぉ、とおどけてみせる。語尾さえ伸ばして。
「もうちょっとだから動かないでよ」
すると彼女は、小さな甘えた声をひとつ、ゴメンとこぼして言うのだった。
「眠くなっちゃった」
「もう朝だから」
雨が降りだした気配を孕む車の走行音、夜間は点滅信号になるために鳴らなかった歩行者用信号のメロディ、市場でラッキョウを洗い、モヤシの髭をとるおばあたちの声、クラクション、トラックのバックブザー、スズメの囀りと、そしてまた自動販売が缶をひとつ、二つと続けざまに吐き出す…目覚め始めた町の音が、朝の淡い光とともに部屋のなかに溜まっていく。
僕はけれど、不思議なくらいにまったく眠気は感じない。手を止めず、むしろ止めたくはなかった。ほどけてしまいそうな何かを結びなおすように、バラバラになってしまった欠片を拾い集めるように、離れていってしまいそうな命を繋ぎとめるように、僕は彼女の髪を編み続ける。
あと少し。もう少しだけ。
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