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太宰治プチ文学案内~2023桜桃忌~

今日は桜桃忌。
作家・太宰治の誕生日、
そして彼の遺体が見つかった日。

生誕した日と死亡が確認された日が重なるなんて、
妙なめぐりあわせですよね。
死に際してそのような偶然があったことも、
太宰が熱狂的に支持される一因なのかもしれません。

今回は太宰作品について、
僭越ながら私の思い出話を交えつつ、記していこうと思います。
太宰作品に触れたことがない方への
読書案内になれば幸いです。

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太宰を読みはじめたのは、高校二年生、晩夏の頃。
それまで大して本を読んでこなかった私が、
あるきっかけ(そのうちまた書きます)で文学に興味を持ち、
まずはじめに…と手に取った作家が太宰治でした。

お昼休みに図書館の文庫コーナーに行き、
とりあえず知っている作家で読みやすそうなものはないかと、
背表紙を追うなかで目にとまったのが、
新潮文庫『走れメロス』でした。

新潮文庫『走れメロス』

中学校で「走れメロス」を習っていたため、
「太宰治」という名前は知っていました。
まあまあ薄いし、これなら読めそうだと、
黒い背表紙を本棚から引き出しました。

「ダス・ゲマイネ」から始まるこの文庫。
昔の文章なのに、なんだか親しみやすくて読みやすいなぁ、と読み進めていました。

そして、ある一つの作品と出会いました。
彼の中期の傑作「富嶽百景」です。

これがおもしろくて、おもしろくて。
短篇だったこともあり、最後までイッキに読んでしまいました。

「富士の頂角、広重の富士は八十五度…」
で始まる、巧みなツカミ。
おもしろエピソードを自慢げに披露するような、ユーモラスな筆致。
そしてバスの窓から見えた月見草の
刹那的で美しい場面の切り取り方…。

特にこの「月見草」にまつわる描写に、心を掴まれました。

「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ」

日常生活の小さなことに美しさを見出すいたいけな感情が、当時の私の心を震わせました。

『人間失格』で有名な太宰治ですが、
彼は多くの短編作品もまた生み出しています。
「駆け込み訴え」「女生徒」などが有名ですね。

特に私が気に入っているものは、中期の短篇「眉山」です。
ある料亭の女の子が、その不器用な行動から常連客に「眉山」というあだ名(というか、陰口ですね)をつけられる話です。
なんともいえない優しさに溢れていて。
太宰文学の笑いと悲しみが詰まった、珠玉の一篇です。

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すっかり太宰の虜になった私は、
彼の作品の素晴らしさをなりふり構わず語るようになりました。
部活動で合宿に行く道中、乗った車の後部座席で「富嶽百景」を語りまくっていたことは、恥ずかしながらもいい思い出です。隣に座った先輩方の「?」という表情は未だに忘れられません(ごめんなさい)

しかし、当時の部活の顧問は偶然にも国語科でして、
私の話を苦笑しつつも聞いてくれました。
ちなみにその先生が好きな作品も
これまた中期の名作「畜生談」でした。
(なんだ、同じ穴のムジナではないか。)

ということで、その後も
「晩年」「人間失格」「斜陽」など、
太宰の主要作品を読んでいきました。
私は彼の作品をきっかけに、近代文学への扉を開いたわけです。

人生のターニング・ポイントとなった中期の作品群は、今でも特別な存在として、心の書棚に納まっています。

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「富嶽百景」以降、そこそこ読書をするようになり、いわゆる本の虫たちとの交流も増えました。彼等と話す中で、太宰の名前はしょっちゅう上がります。〈太宰にハマるルート〉は近代文学ファンが一度は経験する道といえるのではないのでしょうか(いいすぎ?)。

太宰は現代でも大きな支持を集める作家です。その中には、いわゆる太宰の熱狂的なファン・ダザイストも、少なからずいます。いち個人の偏見ではありますが、彼のファンにはある共通した特徴があると感じます。それは、必ず各人がオレの〈太宰像〉を強固に持っていることです。

彼らにとって、作者である太宰は
”自分にとって唯一の理解者” かもしれないし、
”ほおっておけないダメ男” かもしれない。
厭世的でニヒルな ”英雄” かもしれない。

このような多彩な〈太宰像〉を作り出す背後には、
「人間失格」に代表されるような太宰作品がもつ、
様々な解釈可能性があると思います。

新潮文庫『走れメロス』の最後には、
奥野健男の「解題」が載っています。
奥野は太宰の文体について以下のように語ります。

まるで自分ひとりに話しかけられているようや心の秘密を打明けられているような気持になり、太宰に特別な親近感を覚える。そして太宰は自分と同じだ、自分だけが太宰の真の理解者だという同志感を持つ。

読者と親密な関係を築くような語り口だからこそ、
自分と似たような性質をちょっとでも作品から感じとれば、
つい共感したくなる。そして味方になってあげたくなるのでしょう。

そうやって作品にそれぞれの人格を重ね、
読者毎に独自の〈太宰像〉が形成されるわけです。

(それを端的に表現した奥野健男、さすがだなぁ…と思います)

ちなみに、高校時代の私はというと(ああ、胸が痛い黒歴史)
クラスメイトやその他人間と深い関係を築くことが怖くて、
自分の立ち位置を守るためにわざとおふざけ役として立ち回ることがありました。本当はそんなに明るくないし、中身もめちゃくちゃつまらない人間なんです。付け焼刃のお笑い知識と奇行でなんとかやり過ごす、脆い人格だったと思います。

「人間失格」を読んだ人はピンと来たはず。
そう、主人公・葉蔵の「道化」の行動に大きく共感したのです。
恥ずかしながら文学経験値の浅い私は「うわ、これ私のことだ…」とゴリゴリに共感しながら、最後まで読み進めました。

今は比較的素直に生きているので、
前ほど共感することはなくなったかなと思います。
高校時代に感じた「人間失格」への共感は、まさにその時にしか生まれなかった感情、高校時代の感じやすい神経・鬱屈とした精神・若々しい身体が生み出した読みだったなあと思います。

最近は、むしろ自分のダメ・エピソード惜しげもなく告白する葉蔵に、いじらしさや可愛らしさを感じます。生きづらさを抱えている人間、私はとても好きです。

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最後に、太宰に関連した短篇をひとつご紹介します。
井伏鱒二「をんなごころ」です。
太宰の死から約一年後に発表されたものです。

太宰は弘前の高等学校時代、井伏鱒二に手紙を送り、
帝大進学と同じ年に弟子入りしました。

太宰の下宿と井伏さンチが近かったこともあり、
彼らには師弟を超えた深い交流がありました。

結婚の世話をしてもらったり、
借金を肩代わりしてもらったり、
病院に入れてもらったり、云々。
(うう…なんか涙が出てきた。井伏アリガトウ…)

とまぁ、親交の深い人物の一人だったわけです。

井伏の抱く〈太宰像〉は、
太宰本人と会って・話して造られたものですから、
後世の私達が抱くものとは、当然のごとく異なるものです。

亡くなった太宰への想いが、
井伏らしい確実な筆致で表れたもの、
それがこの「をんなごころ」かと思います。
ぜひ一読してみてください。

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長々と書いてしまいました。
最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます。

月曜日でお仕事が忙しい方もいると思いますが、
それぞれに太宰に思いを馳せる時間が少しでもあれば、嬉しく思います。

作家と作品は、思いを馳せるだけ長生きします。
それぞれによい桜桃忌が過ごせることを祈っております。

end.🍒







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