小学校の「いじめ問題対策基本方針」を読んで考えたこと

 今の小学校には「いじめ問題対策基本方針」というものがある。2013年に制定・施行された「いじめ防止対策推進法」で策定が義務付けられているらしく、学校のいじめ対策を可視化し、対策のPDCAをするためのものらしい。

 私の子どもが通う小学校の基本方針に目を通してみた。

構成は、
1 いじめに関する現状と課題
2 いじめ問題への対策の基本的な考え方
3 学校(の体制)
4 保護者・地域との連携(をどのようにするか)
5 関係機関等との連携(をどのようにするか)
6 学校が実施する取組
7 (取組の)年間計画
となっており、仕組みとしてはまあ普通なのだが、内容でどうしても気持ち悪いところがあった。何が気持ち悪かったのか、整理して書いておこうと思う。

 何が気持ち悪かったのか。

 「いじめに関する現状と課題」の文章が「本校の児童は、素直で優しく、全般に良好な人間関係を築いている。」という一文で始まるのである。

 他の小学校のものも見てみたところ、同様に、「素朴」「素直」「優しい」「明るい」「活動的」「人間関係が良好」「仲が良い」などの言葉で自校の生徒を肯定的に評する文から始まっていた。「まずは肯定的に」という指導がされているのか、雛形があるのだろうと推測する。

 子どもを肯定的にとらえるのが悪いと言っているのではない。が、「いじめ対策」の方針を考えるための現状認識の冒頭にこの一文があることには、ものすごい違和感を感じる。

 ひとつには、この一文が真実であれば、そもそもいじめは発生しない、ということである。しかし現実にいじめは発生しており、発生しても、この一文は書き換えられていない。そこには、いじめを「あるもの」と認識せずに「基本的にはないもの」「一部の特殊な生徒が引き起こすもの」と思いたいという願望が感じられる。現状認識が歪んでしまっている。

 もうひとつ、こちらの方がより気持ち悪いのだが、「素直で優しい」や「明るく活動的」こそが理想とされ、その特性に当てはまらない子供を矯正しようとする意志、あるいは見ないようする態度が隠れているように思えるのである。
 ある程度の人数が集まって全員が素直、明るい、優しい、あるいは活動的な集団など有り得ないと思うし、目指す必要もないと思う。というより、そんな集団を目指すと、異分子を許さない同調圧力を生み、むしろいじめを生むことになるのではないだろうか?

 ひねくれていても、優しくなくても、暗くても、活動的でなくても、個々の特徴に真摯に向き合うことが本当の現状認識であって、それらをありのままに認めることが、いじめをなくすために必要な姿勢ではないだろうか。

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