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とはいえ人権からは逃れられず、「強者男性」へと至る道もまた弱者男性を幸せになどしない。 シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第7章

じんけんからは にげられない!


人権によって逆説的に生み出された存在である弱者男性。彼らが幸せを手にするためにはどうしたらいいのか?

かつて虚構として生み出された物が人権で、そのせいで弱者男性が生まれたとするならば、人権自体を再び無に帰すか・もしくは全く無いものとして無視するのはどうか?

だがそれは非常に難しい。

なぜならば、我々が住む日本という国自体がその構造の中に人権を組み込んでシステム化している以上、その中で生きる者に対しての人権の干渉は避けることができない。

例えば税。税の仕組み自体は人権が生まれる以前の社会から存在したものだが、税の徴収は人権下において貧富の格差調整としての役割を持つようになった。税金を払った時点で、望む望まざるとにかかわらずより持たざる者への恩恵措置に自身もまた加担することを意味するのだ。

法に関しても、人権下社会の影響を直撃で受ける。男女雇用機会均等法、動物愛護法、障碍者差別解消法、lgbt理解増進法……そして我々はこの法に縛られて生きていかざるを得ない。

また、人権を仮に自身の内で全く無いものとして無視した生き方をするということは、人権という虚構を信じ切っている人との衝突を必ず招く。例えば今ここで「女性とは子供を産む性のことで。男性とは子ども・女性を守り、生かすための性」などと人権を全く無視した「生物学的事実に基づいた認識・価値観」を主張しようものなら、社会の多くの人々はそれをよしとせず、一部からは激しいバッシングを受けることだろう(女性には子宮があり、男性は女子供より身体能力が優位であるという事実があるのに)。

では、この日本という国から脱出してまだ人権による汚染を受けていない社会を求めるか? しかしこの方法にも色々と問題はありそうである。

その国の社会において人権がどれほど浸透しているしているかを測る指数という物が、疑わしい物ながらいくつかある。その中でもやはり一番有名なのが「ジェンダーギャップ指数」だろうか。各国の男女格差を「経済」「教育」「健康」「政治」の4分野で評価し順位付けしたものであるが、それによると日本は146カ国中118位と言う結果で、これによるならば日本はよっぽど人権意識が根付いていない国ということになる(これこそが僕が「人権周りの指数」という物を全く信頼していない根拠でもあるが)。そう考えれば、弱者男性はほとんどの国に移住したとしても現在よりも肩身の狭い思いをするということになってしまう。

では日本よりさらに順位が低い国に移住すればいいのかと言うと、ここで難しいのが外国に移住した瞬間「日本人弱者男性」とはその国において「外国人」としてマイノリティと化してしまうということである。ことによると人権の影響下で優遇を受けるかもしれないし、人権の無い社会では激しい差別を受けてしまうかもしれない。それは「弱者男性が弱者男性として幸せになる」という本来の目的からは大きく遠のいてしまう結果になるだろう。

では、いよいよ弱者男性はどうしたらいいのか? それこそ一部の極端な行動を起こす弱者男性のように、現社会への復讐に身を任せ、ともすれば国家転覆さえ望むような過激な生き方に身を投じるしか無いのか?

そうではない。この人権にまみれた現日本社会の中においても、弱者男性は弱者男性のままで幸せに生きることができるはずだ。

「強者男性」断ちから始める

まず「弱者男性からの脱出」という誘惑を断つことから始めなくてはならない。

世間にあふれている「君も強者男性になれる!」という所謂「弱者男性ビジネス」は、ごく一部の強者男性へと上り詰めた者(実在するのかも不明瞭な)を取り上げることで、ほとんど全部である「強者になどなれない弱者男性」から「ビジネス強者」が搾取することで成り立っている。つまり「弱者男性ビジネス」の恩恵を受けているのは「ビジネス強者」と「ごく一部の、存在も危うい強者男性になれた元弱者男性」だけで、「弱者男性」は「弱者男性ビジネス」に関われば関わるほど不幸になることが目に見えているのだ。

それは、あたかも産業革命後のイギリスで、狭い炭鉱に潜り込み鞭打たれながら「お前も頑張れば資本家になれるぞ!」と煽られてヘトヘトになっている労働者のようだ。

では、「弱者男性ビジネス」によらない「弱者男性からの脱出」を試みるのはどうか。いわゆる「男磨き」と言われるような、筋トレだったりオシャレだったり、資格等の勉強だったり……これらは一見すると別に搾取されている訳でもなく、単純に自分を高めることになるのだから良いことのように思える。

しかし、僕が断言できることはこれらの努力行為が全て「弱者男性からの脱出」を目的としてしまっている以上、どうあがこうと奇跡的にしか達成しえない「強者男性へ上り詰める」ことができない限り弱者男性は幸せにはなれないことになってしまっているということなのである。

容易に想像できるだろう。筋トレして、容姿に気を使い、コミュニケーションの練習をして勉強をして、それでも彼女も何もできずに絶望する弱者男性の姿……。

あるいは、必死に嫌な思いをしてようやく彼女ができて結婚までできたとしても、ふとした瞬間に「自分が欲しかった幸せって本当にこれだったのか?」「今自分は本当に幸せなのか?」と我に返る……。

弱者男性が「強者男性になることで自分は幸せになれる」と思い込み、全ての行動の目的をそこに設定してしまうことは非常に危険なことなのだ。なぜなら強者男性になれなかった瞬間全ての行動は無為と化してしまいかねないうえ、そもそも彼らが想像する「強者男性」のイメージが余りに曖昧過ぎて、ふとした拍子に脆く崩れ去る砂上の楼閣でしかないため、ゴールがいつまで経っても訪れないのだ。

彼女がいる、手に職がある、結婚している、周りから尊敬されている、高収入である、ムキムキである、オシャレで知的。それこそが強者男性……。

本当に?

自分の周囲で幸せそうにしている人は、本当にそんな人たちばかりか? どれか一つでも手にしていれば「強者男性」なのか? はたまた2つ? 3つ? それとも全て……?

これほどまでに曖昧な「天上の存在」でしかない「強者男性」を追い求める先に幸せがあろうはずがない。それはかつて空を飛べなかった原始の人々が空を飛ぶ鳥を眺めて「俺にも翼があればもっと狩りが楽になるのに……」と嘆いていることと何も変わりがない。人が空を飛ぶに至ったのには、そうではないもっと明確な力学を基とした「地続きの未来」の末に「ジェットエンジン」だの「プロペラ」だのを見出したからこそなのである。

これらから分かること、それは「今現在の自分の姿」を正面から見つめて、理解し、受け入れることでしか、その先もしくは目の前、更には今まさに享受しているであろう「幸せ」に気付くことなどできないということなのである。

弱者男性こそが、真の幸福に最も近づける存在である

弱者男性とは情けなく、悲惨な存在である。

散々述べてきたように、人権から見放され社会から見放され、自ら自己を高めるだけの能力も気力すらも持ちえず、与えられず、日々を徒に過ごすことばかりでやることと言えば「何で自分はこうなんだ」「なぜ社会は俺を見放すんだ」と呪詛を吐くことばかり。

たまに何か熱中できることを見つけられたかと思いきや、次第に思うようにいかなくなることに苛立ち、上には上がいることを思い知り、ふと自分が酷く滑稽な存在なように思えて突然全てを放棄してしまう。

そんなことの繰り返しで、もうすっかり自分に自信が無く、何もかもが嫌になって後はもうひたすらにただ今生の終わりが来るのを消極的に眺めるだけの毎日を過ごす……これこそが”一般的な”弱者男性の姿である。

誰もが思う。こんな人生に幸せなどあるはずが無いと。

誰もが確信する。世の中は不公平で、世界全ての不運を一手に引き受けた人間こそが弱者男性=自分なのだと。

僕はさんざん言ってきた。その通りだと。

弱者男性が救われるはずが無いのだと。


しかし、ここでちゃぶ台をひっくり返す。

「いいや、弱者男性こそがこの世界で最上の幸せを手に入れることができる存在なのだ」

全てから見放され、何も持たず、何もできず、ただ徒に日々を浪費することでしか生きられない存在である弱者男性だからこそ、この世界にある全ての幸せが霞むほどの「理想郷」へと至ることができるのだと、僕は確信している。

次回最終章では、このことについて触れていこうと思う。


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