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「人権社会が弱者男性を救うことなど不可能すぎて草」なことがよく分かる3つの思考実験 シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第6章

人権社会において、弱者男性がそれ単独で這い上がろうともがく行為は、ごく稀に強者男性へと成りあがることができた者を除いて社会への復讐となって現れると前回の記事で書いていった。

では、弱者男性ただ一人にその重圧を背負わせるのではなく、これまで人権が行ってきたように弱者男性に恩恵を与えて救い上げようとするとなると、一体どのような方法が考えられるだろうか。

残念なことに、いくつかのパターンで思考実験をしていった結果、弱者男性への恩恵措置による救済の方法は、そのどれもが奇天烈なものにならざるを得ず、到底現実に実行することは不可能であるということが判明してしまった。。

今回は、人権社会が弱者男性を救おうとすると(そもそもそんなことは起こり得ないということは承知の上で)どん方法が考えられるのか、その結果がどんなものになるのか、できるだけ具体的な思考実験3つから得られた見地から考察していく。

弱者男性に女性を当てがう

これは弱者男性をどうにかして救うにはどうしたらいいかという提案の中で、最も短絡的に、思慮浅く、実現可能性度外視で考えた際に非常によく出る方法の一つである。少子化をどうしたら解決するかという議論の中でも、愚かな提案の例として示されることもある。

この方法は、言うまでもなく「女性」の人権を否定している案である。女性からあらゆる選択の自由を奪い、「女性の誰からも選ばれなかった男性」に対して「未婚の女性」をあたかも「徴兵」するが如く「配給」すればいいというこの考え方は、現代社会において最も実現からほど遠い弱者男性の救済案と言っていいだろう。

なぜこんな実現不可能なのが明らかな提案が出て来てしまうのか、その背景を考えてみると、やはりそこには「恋愛市場における男女の不均衡」があるのではないかと思う。

平たく表現するなら「恋愛市場においては”女性である”と言うだけで価値があるのだから、そのアンバランスさは是正されてしかるべきだ」という理屈であり。「ある程度女性の選択権を縛らないと、恋愛市場において男女平等は実現しない」と考えて、上記のような発想に至るのではないだろうか。

ちなみに僕自身も、恋愛市場においては圧倒的に女性側の方が立場が強く、言ってしまえば男性を審査する側であるとすら言えると考えている。男性側はよっぽどのいわゆる「ハイスペック」でもない限り基本的には選ばれる側・アプローチする側で、同条件下での男女は全く対等ではないのは事実だと思う。(だから死んでもマチアプや婚活パーティの類には関わらないと決めている。辛くなるのが目に見えているため)

女性側も、流石に「いやいや、恋愛市場でも男女は平等だよ。差なんてないよ」などとのたまう者はいないのではないかと思う……いないよね?

だが、別に僕自身はそれは是正される必要は無いと考えている。なぜなら「人間」という種にとっては「一部の男性だけが女性にモテて、ほとんどの男性は女性には視界にすら映してもらえず朽ち果てるのみ」と言うのが自然で、ごくごく当たり前のことだと思っているからだ。

サルを見てほしい。ほとんどの種はボス猿が多数のメスを従えて、弱いオスは繁殖できずに死んでいくという生態を取っている。そしてそれは種全体の繁栄にとって有利だからそうなっているはずなのだ。

だから、どちらかというと僕が希望するのは「一夫一妻制の廃止」だ。もはや完全に恋愛市場の自由化が進み、男女の恋愛格差が明らかになっているのにいつまでも古臭い結婚制度を保っている方が、人間という種にとって害悪だと思うからだ。

恋愛なんて言うのは、一部の強者男性と女性が行うもので、弱者男性には関係の無いもの」という認識が広まって、弱者男性が苦しまずに済むためにも、日本政府には一刻も早く一夫一婦制の廃止を検討してもらいたい。

弱者男性割引、弱者男性料金などの導入

100%在り得ないということはひとまず置いておいて……。

このような「弱者男性を救い上げるために金銭的支援をする」という発想に最も近いものに、現在ある施策としては「生活保護」があるし、そこから更に発展した考えとしての「ベーシックインカム」が挙げられるだろう。

しかし、生活保護が弱者男性を救わないことは、今現在既に制度があるのにも関わらず弱者男性は無くなっていないことから明らかだし、それは恐らくベーシックインカムが導入されたとしても大きく変わることは無いだろう。

それはなぜかと言えば、上記で挙げた二つの例はいずれも「全ての人に等しく与えられる(もしくは権利がある)もの」だからだ。

これまで何度も言ってきたように、弱者男性とは人権が生まれたその瞬間に同時に生まれた、「恩恵にあずかれない何も持たざる者」でり、その時点で「女性」に劣り、「障碍者」に劣り、「被差別人種」に劣った存在となった。

つまり、人権のスタート時から一段下がったところに追いやられた弱者男性が、いくら「全人類平等に与えられる権利」を受けた所で、相変わらず弱者男性が他より一段下がった存在であることに変化は生じないのである。

だからこそ、僕は100%在り得ない「弱者男性料金」「弱者男性料金」こそが弱者男性を救うと提案しているのだ。

そして、そのような制度が万が一、何かの間違いで実現された所で確実に社会は納得しないだろうし、バッシングを受けるだろうし、何なら「弱者男性料金すら払えない弱者男性」が生まれた瞬間、その者に対してこれまでの弱者男性が受けてきたのとは比較にならないほどの冷遇を受けることは想像に難くないので、やはりこれもまた歪を生むことにしかならないことは明らかなのだ。

弱者男性を「国の象徴」とする

実は人権が完全に浸透していると思われているこの日本社会にも、人権の対象外として例外的に取り扱われている存在がある。

それは「天皇」である。

現在の天皇陛下は日本国憲法において「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとされ、その生存を国が保証する代わりに様々な人権的制限を設けられている存在だ。

僕が提案する最後の「弱者男性救済案」とは、この「天皇」と同じように、「弱者男性を象徴的存在とし、その生存を保証する代わりに様々な人権的制限を設ける」という方法なのだ。

一体なぜそれが弱者男性の救いになるのか、具体案を交えつつ説明していこう。

まず必要になるのは「弱者男性の定義」である。ここでは仮に「30歳以上、無職、配偶者無し」としておく。この程度であれば、国の保有するデータから十分把握することができ、虚偽であったり個人の感覚差という物が入り込む余地が無いはずだ。

そして、その定義に当てはまった男性を強制的に国の象徴たる「弱者男性」として招集し、あらゆる人権の制限を設ける代わりに国が生存の保証をするのである。

結婚・繁殖・就職・の禁止、居住地の制限、生活費の固定、国民の監視下に置く等々……、正に象徴的に「弱者男性」としての振る舞いを全うしてもらうためのおぜん立てを、人権の制限により行うことになる。

では、この制度が制定されたことにより国民感情はどのように動くだろうか?

まず、ほとんどの男性は「弱者男性になったら自由がなくなる!」として必死に要件が満たなくなるよう努力することだろう。どんなブラックだろうと、劣悪なバイトだろうと働こうとしたり、どんな相手でもいいから結婚しようとしたりするはずだ。

しかし、一部男性の中には「どうせ俺が努力したって幸せになんかなれないし、国が生かしてくれるならまあいいか」として努力を放棄し、甘んじて国の象徴たる弱者男性として招集されることを受け入れる者も出てくるだろう。

この時点で弱者男性は救われていることになる。これまで「持たざる者」という意味でしかなかった「弱者男性」が、自らの生存を保証してくれる「特権」に生まれ変わったからだ。

「弱者男性であるかどうか」の定義が明確になったことも意義が大きい。これまであった「お前はまだ弱者男性とは言えない」だとか「(明らかに強者なのに)俺は弱者男性だ」とかいう、定義があいまいだったが故の弱者男性という言葉自体の意義の薄さというものが解消されるからだ。

当然、弱者男性の中にも能力面での優劣はあるだろうが、その点は人権に制限を掛けているため問題ない。「国民が弱者男性だと納得できる範囲」での生活を強制的に実現させるため、そこに優劣は無く、完全に平等に弱者男性にすることが可能だ。

女性の中で能力に劣る者の中には「弱者男性だけズルい」と思う人も出て来るとは思うが、それは仕方がない。なぜなら女性は人権下において「恩恵を受けるべき保護対象」なのであって、間違っても「人権を制限されて隔離される対象」では無いからだ。

この救済法が成り立つのは、弱者男性が「人権の恩恵の範囲外である存在」ということをより明示化しているからこそなのである。

というか普通に考えて、どれだけ無能な女性であろうとも上記に挙げたような「結婚・繁殖を禁止」にしてしまったら、それは著しく社会の損失になってしまうだろう。そんな意味のないことをしてどうするというのか。

これは弱者男性が、「恋愛市場、経済、その他全てにおいて社会に不要な存在」として存在しているからこその提案なのであって、女性はただ女性であるだけで恋愛市場において圧倒的な需要のある存在なのだ。そんな社会にとって必要な存在を弱者だからと言って保護して、社会から隔離してしまうなど愚策にもほどがあると僕は考える。

では、弱者男性を「国の象徴」として保護することがどう社会のためになるのかというと、それは先ほど述べたように「弱者男性にならないよう頑張らなきゃ」という、これまで定義やゴールラインが不明確なためイマイチ形を得なかった圧力が具体的な形を持って示されることになるため、男性自体の底上げが成されるというのがまず一つ。

加えて前章で述べたような「社会に対して復讐する弱者男性」という者がいなくなるので、その被害を受ける人もいなくなるというメリットがある。

これだと「30歳以上男性、配偶者無しのフリーター」が救われないという意見がありそうだが、この場合の救われていない男性と言うのはこの思考実験世界内での「弱者男性」ではないので、それが救われなくてもまあしょうがないよねとなるので実は隙が無い。その人が救われたいのであれば、バイトを辞めて無職になれば一瞬で「弱者男性」として国に保護されるので、そうすれば何の問題も無いのだ。

まとめ

……と、ここまで全て仮の話で弱者男性が救われる方法について考えてきたが、お分かりの通り滅茶苦茶である。

僕が本当に言いたいのは、弱者男性と言う存在を救いたいのならば、この位滅茶苦茶なことをしないとダメなのだと、つまりは実現不可能ですよねということなのである。

弱者男性は救われない。

なぜなら、弱者男性を救おうとすると必ずどこかで歪みが生まれ、何れかの人権を否定したり、もしくは弱者男性自身の人権を否定するような事態に陥らざるを得ないからである。


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