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火曜サスペンスで計る日常

なにが日常で、なにが非日常か。

簡単な言葉で言ってしまうと、いま、多くの人の価値観が揺り動かされているんだと思う。
以前の記事でわたしはこう書いた。

スーパーマーケットという場所は、
わたしの食や暮らしと直結している場所であり、
わたしの日常があり、
わたしの社会性があり、
わたしの物差しがある場所なのである。

今はそんな場所にも行きにくくなってしまった。
わたしにとってのスーパーマーケットに限らず、自分の基準となる場所や行動を失ってしまい命綱なしで空中に放り出されるような気持ちになっている人はきっといるはずだ。
例に漏れずわたしもここ数ヶ月、架空のドラマのような世界に入り込んだような心持ちで生きている。

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ドラマの世界、と言って思いだすのが”火曜サスペンス劇場”の話だ。
これは先輩から以前聞いた話で、ずっと耳の奥にこびりついていた。

当時わたしは職場の先輩と「家に帰ったらいつも何をするか」というなんの生産性もない会話をしていた。
その時先輩はこう言った。
「わたし家に帰ったらとりあえずテレビの電源を入れる。
毎日テレビを流しながら家事をするんだけど、火曜になったら必ず”火サス”にチャンネル変える」


わたしはあまりテレビドラマを見ない。
架空のキャラクターがドラマチックに送る虚構の世界にそれほど興味を持てないというのもあるのだけれど、毎週決まった時間に家のテレビの前にスタンバイするという行為ができないのも原因の一つだ。

先輩は生まれた時から、わたしとは少し違ったらしい。
先輩の生家では一日中テレビをつけており、それを家族が見るとも見ないともなしに日常生活を送っていた。
特に先輩の祖母や母が楽しみにしていたのが”火曜サスペンス劇場”。
毎週火曜日の夜、2時間のサスペンスドラマが放映されるもので、根強いファンが多かったらしい。
先輩の家も例に漏れなかった。
見るとも見ないともなしに、火曜日の夜になると火曜サスペンス劇場がテレビに映し出される家で育った先輩もその後、サスペンス好きに成長しひとり暮らしの家では見るとも見ないともなしの火曜サスペンス劇場を流す、筋金入りの”火サスっ子”に育った。

わたし自身はあまりテレビを見ないので、火曜サスペンス劇場といえば「必ず事件が起きて、必ず犯人が逮捕される」というおぼろげなイメージ映像が浮かぶ程度だ。
そしてわたしは生産性のない会話の延長線上、惰性で先輩に尋ねた。
「火曜サスペンス劇場の魅力ってどんなところなんですか?」
いま思うと筋金入りの火サスっ子に対して軽率な質問である。
しかし、先輩の返答は意表を突くものであった。

「うーん、、、わたしにとっては日常だからなあ」

サスペンスが、日常?
誰かが刺されたり、轢かれたり、打たれたり。
サスペンスの世界で起こるストーリーは「日常」とは程遠いように思える。

しかし火曜サスペンス視聴にかけてベテランの先輩の捉え方は、一般的なものとは少し違った。
先輩曰く、20年以上も火曜日の夜の2時間枠をサスペンスで彩ってきた火曜サスペンス劇場はもはや、話の流れ方もどんどん洗練されある一つの”様式”ができあがっていたらしい。
2時間で事件が起き2時間で犯人が逮捕されるためには、
「1時間経過した段階ではこの程度犯人像がつかめていないといけない」
「このタイミングで、主人公は手がかりに気づかなければいけない」
という、様式である。
先輩も年季の入った視聴者なので、その様式を語れるくらいには得心していた。
なのでもはや画面を注視しなくても、経過時間さえ押さえておけばその日の火曜サスペンス劇場の”見どころ”は押さえられるというのだ。

先輩は毎週同じ曜日の同じ時間にテレビのチャンネルを切り替える。
誰かがサスペンス的に刺されて、火曜サスペンス劇場は始まる。
先輩はある時は料理をしながら、ある時は洗濯物をたたみながら
見るともない火サスと共に火曜日の夜を過ごす。
紛れもなくそれは、火曜日の夜の2時間だ。
あるタイミングになると横目で火サスを見る。
怪しい人間が登場する。
ちゃんと時間は経過している。
またあるタイミングになると、視線を送る。
決定的証拠を掴む。ハッとした表情の主人公がアップで映し出される。
そのあとしばらく時間が経過したのちエンディング、犯人は逮捕される。
音楽が流れる。
ああ、今日もおもしろかった。
そして決まった時間、今週も無事に火曜日の夜は終わる。

先輩にとって火曜サスペンス劇場は、単に物語としての高揚を楽しむだけではなく
日常のタイムキーピングをする装置となっていたのだ。
「いつもどおりの時間に犯人が誰かわからなかったり、何かが起きなかったりすると不安になるんだよ」
こう、先輩は重ねた。
サスペンスの内容ではなく様式にハラハラするなんてなんだか想像するとなんだか奇妙な感じもする。

つまるところ”火曜サスペンス劇場”は先輩にとって好きや嫌いという感情を超越した”日常”であり”ものさし”なのだ。
「見る」とか「見ない」とか、そういう問題ではなかったのだ。

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もしかしたら、誰にでも、家の中にだってあるんじゃないだろうか。
「これが日常」と呼べるようなものが。
当たり前に身に染み付きすぎて気がつかないだけなのかもしれない。
別に人に誇れるようなことでなくてもいい。
健康やトレーニングにつながるようなことでなくてもいい。
不安定な毎日の中でもずっと続いている自分の中の小さな日常を見つけることができたら。
一冊の本に貼り付ける付箋のように、「立ち返ることのできるポイント」を作ることができたら。
少し安心して毎日を送ることができるんじゃないだろうか。

家に居ながらそんなことを考えている。

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