”合理的な人間”の反対とは?

”合理的な人間”の反対は”非合理的な人間”ではない。”信仰的な人間”だということを書きたい。

俺が「自分は合理的にものを考えるタイプだと思います。」というと、「でも人間間違えることもあるから・・・(つまり、非合理、不合理的なこともするから)」と返してくる奴がいる。俺が言いたいのはそういうことじゃない!ていう主張。めんどくさいのでこう返してくる奴に説明しないからここで書く。

合理とは

「合理」の辞書的な意味は「理にかなっているさま、論理的に整合しているさま」。

なので、「合理的な人間」と言うと「理にかなっている人間」と言う風に取られてしまうのはしょうがないとは思う。

しかし、「合理的な人間」が「自分は絶対に間違えることはしない、完璧な人間です」なんてことを言うわけがないので、「合理的な人間」が言う”合理的な人間”というのはそういう人間のことではないと察して欲しい。

”合理的な人間”とは

”合理的な人間”とは「理にかなうように、論理的に整合しているように思考・行動しようとする人間」だと俺は定義している。

なので、”合理的な人間”でも不合理なこともするし、非合理的なことを考えることもある。あくまで、”合理的な人間”が実現可能な範囲で合理的にふるまおうとしているに過ぎないということだ。

”合理的な人間”ではない人間とは

”合理的な人間”ではない人間とは、”信仰的な人間”であると俺は考えている。ここで言う信仰は何かの宗教家やその信者と言う意味ではない。

”合理的な人間”は常に自分の行動や考えが理にかなっているかを考え、検証している。しかし、”信仰的な人間”は何かを正しいと思い込みそれだけを唯一の正解とみなし、思考停止し行動する人間である。

”信仰的な人間”が結果として合理的な行動をとることもあるし、合理的な考え方をすることもある。しかし、彼らは一度その行動や思考が正しいと判断したら、思考、検証を停止し同じことを繰り返す。そして、いずれは合理的ではなくなる。

俺が言いたいこと

俺が「自分は”合理的な人間”です」という時、それは「少なくとも”信仰的な人間”ではないです。」と言うことに等しい。

なので、俺は普通に間違えるし、非合理的なこともする。昨日言ってたことをくるっと手のひら返すこともある。それは一重に”合理的な人間”であろうとしているからだ。

”信仰的な人間”からすると、間違えることや一貫性を乱すことは合理的ではないらしいが、”合理的な人間”ほどよく間違えるし、主張が二転三転すると思う。”正しい”ことをいつまでも繰り返す”信仰的な人間”には理解できないかもしれないが。

”信仰的な人間”は感情で、”合理的な人間”は意志の力による

アランの幸福論のパロディ。俺はこう考えている。

ハラリのサピエンス全史なんかでも書かれていたけど、人間は”信じる力”が他の人類より強かったので、肉体的、知能的に劣っていても集団の力で勝った。基本的に人間は”信仰的な人間”なのだろうと思う。

”信仰的な人間”にはありのままに生きていればなれる。しかし、”合理的な人間”には自然にはなれない。”合理的な人間”であろうとする必要がある。

”合理的な人間”には心がないなどというが、”合理的な人間”には寧ろ強い心の力が必要である。

世の中の多くの人は”信仰的な人間”にはなれても、”合理的な人間”にはなれていない。なので、”合理的な人間”とは何かをしっかり語れる人はそう多くないと思うので、自分は”合理的な人間”になりたいと思う人には参考にして欲しい。

まあ、俺自身もどこまで”合理的な人間”になれているかは分からないが。




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