なぜ「パリテ」は最悪の選挙戦略か ―民主主義のためのデザイン原論②―
政治をデザインするということ
今回は、民主主義のためのデザイン原論、第二弾です。
前回の記事では、民主主義とデザインの関係について、次のように述べました。
ある政党がデザインに致命的に失敗するということは、その政党が「有権者の立場に立って」考えることができない、という事を示しています。分析者にとってだけではなく、そのデザインに触れた有権者もそう受け取るということです。
今回以降は、民主主義とデザインの関係をさらに深く掘り下げていきます。はっきり言えば、選挙と政党をいかにデザインするのか、という話です。
「え、選挙と政党をデザインする、ってどういうこと?政党Webサイトや選挙ポスターをデザインするってことならわかるけど・・・」と思われた方。それが常識的な反応だと思います。
ただ、政党や政治家は本来、有権者にとって「道具」にすぎないと言えば、ちょっと伝わるでしょうか。ここではさしあたり、有権者や支持者が、道具としての政党や政治家をどう使いこなすのか、そのUX(ユーザー体験)をきちんと設計しましょう、という話ぐらいに理解しておいてください。
失敗したUXデザインの例
成功するデザイン原則について考える際、最もわかりやすいのは、デザインの失敗例から考えることです。
セブンイレブンのセルフコーヒーメーカーの話をご存じでしょうか。数年前、日本でもっとも有名と言っても過言ではない某デザイナーに依頼して、鳴り物入りで全国展開されましたが、結果はさんざんなものでした。
どの店でも、使い方がわからない顧客が多発し、各店舗でペタペタとテプラを貼って対応する始末。せっかくの洗練された「デザイン」が台無しになってしまいました。
これは、明らかにコーヒーマシンのUXデザインの失敗です。で、おそらく店員に「どれ押したら良いの?」とか、「レギュラーサイズと思ってLボタンを押したら溢れた」とか、色んなクレームが殺到したことが容易に想像できます。
誰のためのデザイン?
デザインについてもっとも本質的な事を理解したいという方には、『誰のためのデザイン?』という本をオススメします。
認知科学の観点から、良いデザインとはいかにあるべきなのかということを、豊富な具体例とともに解説した、いわばデザイン哲学のバイブルと言っても過言ではない書物です。
この本では、「行為の7段階モデル」が提唱されてしています。かみ砕いて説明すると、「ある目的を実現するために、こういう行動を行って、そのリアクションが返ってくる」という行為→認識のサイクルが、ユーザーの意図通りにスムーズに誘導されること、それが良いデザインの条件だという話です。
さっきのコーヒーメーカーの例で言えば、理解に迷うことなく、ユーザーが操作して、自分が欲しいコーヒーが出てくることが良いデザインです。ユーザーが意図しない温度や量の液体が出てくる時点で、デザインとして完全に失敗しているのです。
この定義は、別にマシンや道具に限りません。企業の公式Webサイトの機能は、ユーザーが求める情報を、わかりやすく提供することです。イベントのチラシなら、内容・日時・場所をわかりやすく伝えつつ、イベントに参加したい人をうまく誘導することでしょう。
そう考えると、紙媒体やWebサイトなどの狭義のグラフィックデザインも含めて、ありとあらゆるものが、行為→体験のデザインとして理解できます。機械やメディアだけでなく、組織もプロジェクトも、役割としての人も、ユーザーが関わるすべてのものは、デザインという視点から考えられるのです。
誰のための政治?
さて、ここで選挙をデザインしてみましょう。
ポスターのデザインの事を言っているのではありません。選挙運動というイベントそのものを、デザインとして考えてみるということです。
有権者が行う行動は、投票です。私たちが何のために投票するのかと言えば、突き詰めて言えば、自分たちの生活をより良いものにするためです。これがユーザーにとって望むべき結果です。
生活の向上が出力だとすれば、入力はなんでしょうか?言うまでもなく、投票行動です。選挙を通じて、政党や政治家が、有権者にとって道具となり、有権者にとって良い社会を実現するのです。
だから、政党や政治家が有権者に伝えるべきは、「私たちに投票すれば、―具体的な政策によって―あなたの生活がより良くなります」。これが選挙デザインのアルファでありオメガです。選挙運動全体にわたり、ポスターや公式Webサイト、演説、討論会、スタッフの有権者への対応、あらゆるところに、この「有権者のため」というメッセージが徹底して貫かれていなければなりません。
ポピュリズム批判は民主主義の否定
「あなたの生活が良くなりますって、それポピュリズムじゃないの?」って言う学者もいるでしょう。でも、個々人の生命や生活、人権、それ以外に大切なものはどこにあるでしょうか?それ以外のすべてのことは、財政規律であれ国家秩序であれ、あるいは国際平和であれ、すべて「道具」に過ぎないのです。国民の生活や人権に繋がらない「正しさ」に、なんの意味もないのです。
「国民の生活を豊かにしようとする政策はポピュリズムだからダメ」という信念は、いわゆる野党応援団の一部に、かなり浸透した考えのように感じることが多々あります。
しかしそれは、エリートによるエリートのための政治であり、まさに民主主義の否定です。民主主義も人権も理解していない似非リベラル学者たちを周囲から一掃できないから、いつまでたっても野党は支持を得られないのです。
もちろん、悪い意味でのポピュリズムだってありえます。たとえば、「国民一人あたり明日1億円ずつ配ります」という政策は、確実にハイパーインフレを引き起こし、確実に経済を崩壊させるでしょう(お金を配ることそのものが問題なのではなく、はっきり言えば金額の問題です)。
でも、その政策がダメなのは、イデオロギー的に間違っているからでも社会を混乱させるからでもなく、最終的に国民を苦しめる政策だからです。ポピュリズム批判は、あくまでポピュリズムに基づいてなされなければならないのです。
なぜ「パリテ」は選挙戦略として最悪だったのか
以上、あたりまえの事をぐたぐだ書いてきました。しかし、野党の選挙戦略を見ていると、本当にこのことを理解しているのだろうか、という疑問が沸いてくることがあります。
中でも最悪だったのは、2019年参議院選で立民の選挙戦略の中心を担った「パリテ」です。
そもそも、この言葉を知ってるという人は、有権者の中にどれだけいたのでしょうか。別に知らなくても恥ではないので念のため解説しますが、候補者の男女比をできるだけ等しくしましょう、というフランス由来の方針のことです。
・・・という説明を読んだ有権者はどう思うでしょうか。
「あー、なるほど、パリテってそういう意味なんだ。
・・・だから?」
これは、有権者として、めちゃくちゃ正しい反応です。なぜなら、この戦略は、「私たちに投票すれば、―具体的な政策によって―あなたの生活がより良くなります」という選挙デザインの原則から逸脱しているからです。
これを理解しないのは、有権者の意識が低いのではなく、こういう選挙戦略を思いつく広告代理店や政治家の頭が高すぎるのです。
言うまでもなく、この社会には、女性の貧困や労働のなかでの不利益、性暴力の問題その他、ジェンダー平等の観点から解決すべき問題がたくさん残されています。政治の仕事は、この社会に生きる現在と将来の人々のために、制度設計の観点からこれらの問題を解決することです。
そのために、手段としてのパリテを実現しようとするのは理解できます。私個人としても、パリテそのものに反対している訳ではありません。ただ、デザインという観点から言えば、立憲民主党は「私たちに投票すれば、国会議員の男女比率が平等になります」というメッセージを有権者に出していたわけです。ここに有権者は、政党の独善性を読み取ってしまうのです。
「あー、要するにさ、候補者が女性だから、自分たちに投票してくださいって言ってるの?それって有権者をあまりにバカにしてない?」
もう一度言いますが、これも極めて正しい反応です。
みなさん、違う会社の自販機が2台並んでいることを想像してください。左側の自販機の中に、缶やペットボトルの見本が並ぶ代わりに、こんな張り紙が貼ってあったらどう思いますか?
「左の自販機は、右の自販機に比べてお金があまり貯まってないので、こちらにお金を入れてください。」
これで、左の自販機にお金が入れる人が増えないのは、消費者の意識が低いせいでしょうか?
「パリテ」を有権者にPRする選挙戦略は、完全に逆効果です。自分たち国民のことも、さらに言えば性差別・性暴力のことも立憲民主党は真剣に考えていない、という暗黙のメッセージを、有権者に伝えてしまうのです。
これはもちろん、パリテだけに言えることではありません。どれほど議会にマイノリティを集めて「多様性」を謳っても、それ自体にはまったく何の意味もありません。有権者抜きの、完全な自己満足です。
「国民の生活が大事なんて政治は間違っている」と言い切った日本会議の稲田朋美と、「国会議員の男女比を同率に近づけ、多様性を国会内で実現するために国民は投票するべきだ」と考える立憲野党、そこにどれだけの違いがあるのでしょうか。
与党と野党は、車輪の両軸のようにどちらも国民不在の政治を推し進め、国民を政治不信に陥らせ、結果として投票率を下げているのです。
投票率向上キャンペーンが生み出す政治不信
最近、ひどい話がありました。
投票率向上のために、署名活動を開始。中村喜四郎氏が呼びかけ、本部長は枝野幸夫、副本部長に福島瑞穂・志位和夫らが就任し、野党国会議員140人が参加とのことです。
でもそれ、誰のためですか?
たとえば、どこかのコンビニチェーンがおにぎりの売上を上げたいと思って、「GDPを上げるためにおにぎりを買おう」キャンペーンをやり始めたってニュースが出たら、みなさんどう思いますか?「虚構新聞ネタだろこれ」って思いますよね。
それと同じです。有権者は、投票率を上げるために投票するのではありません。自分や誰かの不幸を減らし、より生きやすい社会を作る、そのために投票するのです。そのことを本当に理解してたら、このようなキャンペーンには乗れないはずです。まして、投票義務化などの与太話に賛同することなど、絶対にありえないはずです。
これら投票率向上キャンペーンの背景には、有権者の政治意識の低さを問題だと考える、ある種の啓蒙主義が透けて見えます。この政治の側の選民意識こそが、国民の政治不信を煽り、政治離れの元凶になっています。
国民が政治に関心がなくなっているのではありません。こんな荒唐無稽なキャンペーンを平気でやってしまえるほど、政治の方が国民に関心がなくなっているのです。投票率の低さは、あくまでその結果に過ぎません。
この署名に乗ってしまったすべての政治家は、政治が誰のためのものなのかを完全に忘れています。民主主義とはいったい何かをもう一度見つめ直し、猛省してください。
野党が信頼を回復するために
もちろん、「私たちが政権を握れば、あなたの生活が向上します」と言っても、単純に信じてもらえるかといえば、そういう訳ではないでしょう。
政治不信については前回も書きました。『誰のためのデザイン』を参考にするならば、「学習的無力感」という概念で説明できる部分も大きいと思います。意図をもって行動しても思い通りの結果にならなければ、自分には出来ないと思い込んで無力感をもつという心の状態です。
たとえばコーヒーメーカーが使われなくなる原因として、そもそも操作がわかりにくいという他に、もう一つあります。それは、機械そのものの不具合です。同じボタンを押しているのに、出てくるのがアイスコーヒーだったり水道水だったり次亜塩素酸水だったりしたら、そのマシンを使う人は誰もいなくなるでしょう。コーヒーメーカーを使ってもらうためには、ユーザーが意図した通りに動作し続けるしかないのです。
無党派層の、「どうせ政治家なんてみんな一緒、政治では何も変わらない」という言葉を耳にします。しかしそれは政治に無関心なのではありません。むしろ、政治を変えようとしても、掲げた政策を実行してくれなければ、期待するだけ無駄だと思うようになった結果の言葉です。
投票率の低さが学習的無力感なのだとすれば、それはやはり政治の側の責任なのです。
与党だけではありません。あえて言いますが民主党への有権者の不信感は、非常に大きいものがあります。
その中でもっとも深刻なのは、消費税増税でしょう。2009年の衆院総選挙時の「4年間は消費税を増税しない」という公約を破っただけではありません。
すべて社会保障費に回されると国民に説明した上での増税だったのに、それも反故にされ、事実上、法人税減税の穴埋めに使われています。
野党は、社会保障費に回さなかったのは自公政権だという言い訳をするのでしょうか。ならば3党合意の大前提が崩された訳で、消費税を5%に戻すのが筋のはずです。それなのに8%→10%まで増税されても、野党がその状況を是認し続けているのはどうしてでしょうか。これでは、現与党による詐欺に、野党も荷担したことになりませんか?
消費税増税について、国民は野党に二重に裏切られたのです。まず、その事実をきちんと認識してください。
消費税は終わった話ではありません。現に10%もの税が生活に重くのしかかりつづけているのですから。一部野党は、消費税について裏切り行為を現在進行形で続けているのです。
その状況で、どれだけ国民のことを考えた別の公約を提唱しても、そう簡単には信じてもらえないでしょう。
真摯に反省し、謝罪し、今後は一つ一つ約束したことを実行していく。その地道かつ誠実さの積み重ねによってしか、この国に深く刻まれた政治不信を払拭することはできないのです。
政治が信頼を取り戻すためのチェックポイント
この記事を読んでくださっている政治家や選挙事務所スタッフのために、有権者の信頼を回復するために、今すぐ使える具体的なチェックポイントを挙げます。
✓有権者視点から政策の意味を考えられていますか?
✓語りかける相手にあわせた言葉遣いができていますか?
✓地方選の応援演説で、国政のことを長々と話したりしていませんか?「打倒安倍政権」とか「平和憲法を護れ」とか言ってませんか?
✓被災地での応援演説では、有権者にお見舞いの言葉をかけることから始めていますか?
✓選挙演説で、国民の生活レベルの話に落とし込んで話すことができていますか?冒頭からGDP成長率など抽象的な話を延々と話したりしていませんか?
✓実際に苦境にあえぐ人に手をさしのべることを忘れて、国会の中で「正しいことを言う」ことに自己満足していませんか?
✓社会問題化させただけで、実際には解決していないのに、自分の手柄として誇ったりしていませんか?
✓公約は全力で実行していますか?
✓公約が実行できたかどうか自ら検証し、守れなかったときは反省し原因を突き止め、改善しようとしていますか?
✓公認・推薦した政治家が不祥事で辞任したとき、推薦した人や政党は、次の選挙で有権者に謝罪していますか?
✓有権者から意見・批判をもらったら、一言でも感謝の言葉を伝えていますか?
✓有権者に話しかけられたら、最後まで遮らず話を聴くことができていますか?
✓SNSで有権者を誹謗・中傷するようなことを言ってませんか?他党の支持者であれ関係者であれ、どんなに「いかがわしい人」でも、その人もまた有権者であり、あなたは公人の立場であるということを理解していますか?その言葉を読んでいるのも、また有権者であるということを忘れていませんか?
✓SNSで有権者をブロックしていませんか?(ミュート対応は問題ありません)。
✓選挙事務所に有権者が来たら、その人がボランティア志望であれ、話を聞きたいという人であれ、丁重に応対していますか?敵陣営のスパイかもしれないなどという猜疑心から、むげに追い払ったり無視したりしていませんか?
✓有権者から意見を募るフリをして、自党の功績をアピールを混ぜたりしていませんか?
✓支持者の意見も聞かず、他党との合併交渉を内密に進めたりしていませんか?
これらのことは、すべて私や友人たちが実際に経験したり、あるいはSNS上で見聞きした具体的な出来事を念頭に置いています。
これらの振る舞いはすべて、「私たち政治家や政党は、有権者のことを真剣に考えていない」というメッセージを、知らず知らずのうちに垂れ流しています。
そして、そのメッセージを受け取った人は、それを周囲の人に話しています。一人の熱心な有権者の支持を失うことは、その何倍・何十倍もの票の低下を生み出すのです。
政治家やスタッフによるひとつひとつの有権者対応の積み重ねが、政治不信を創り出しています。「無党派層」と言われ、政治に無関心なフリをしている人の中には、実際に野党や社会運動に関わった結果、その実態に幻滅し、そして離れていった人が相当数いるのです。
良心的な支持者が離反することの何が問題かというと、どうやら支持基盤が弱体化するだけではなさそうです。色々な事例をみている限り、その先に、政党のためなら矛盾した行為でも容認し、他党や無党派層を攻撃する、いわば狂信的な支持者だけが残っていきます。
そうした「コアな支持者」の振る舞いを見て、多くの有権者が「やっぱ野党もムリ」って思ってしまう。こういうことが、あちこちで繰り返し起こっているように私には見えます。
次回の予告
次回こそ、「民主主義のためのデザイン原論」最終回。
政党をデザインするということがどういうことか、そして「真のボトムアップとはどういうことか」について書きます。その過程で、政治の本質にも迫っていきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?