日本財団の研究  番外編 ブラック五輪と憲法改正

はじめに

2018年8月発刊『月刊菅野完Gesellschaft No.005』に掲載された「カルト国家の淵源5 東京五輪の先にあるのは大東亜戦争の再演か」を大幅に加筆・修正したものを無償公開いたします。転載許可をいただいた編集部に感謝申し上げます。 

要約

 東京五輪の「ブラック・ボランティア」は、自己犠牲精神を植え付ける教育装置である。その意味において、東京五輪と憲法改正は、「戦後レジームからの脱却」のための両輪として位置づけられている。

東京五輪ボランティアのブラックな実態

2020年の東京五輪開催に向けて、様々な課題や問題が明らかになりつつある。そのなかで、とりわけ深刻なものの1つがボランティアの問題だろう。

計11万人のボランティアは、酷暑の中10日以上・8時間の無償労働に加え、宿泊も自費負担することになる。その無償ボランティアの中には、驚くべきことに、医療スタッフや薬剤師、通訳、海外要人の接遇といった高度専門職さえ含まれている。

さらに、酷暑という労働条件にたいして有効な対応策が講じられているとは思われない節がある。たとえば第四回ボランティア検討委員会では、暑さ対策は「基本的には自己管理」としつつ、マラソンなどの早朝の競技の場合は、ボランティアは終電での開場入りを想定し、待機時間で「ボランティア同士の交流機会や、士気を高めるような取り組み」を検討することなどが話し合われた。

第四回ボランティア検討委員会


そもそも、ボランティアが終電で現場入り・徹夜を強いられるのは、実行委員会が彼らに宿泊施設を用意しなかったからに他ならない。そのトップの判断ミスを、「ボランティアが徹夜で士気を上げる」ことでカバーさせようとしているのだ。しかしながら、睡眠不足が熱中症のリスクを高めることは常識の範疇である。このままでは、ボランティアに熱中症が多発し、オペレーションが崩壊することは目に見えている。

まさに、兵站を無視し多くの兵士を餓死させた旧日本軍の失敗を、喜劇的に再現しようとしているのではないか―そのような感想を抱いた人がが少なくないことは、2018年には、Twitter上で#Tokyoインパール2020というハッシュタグが大流行したことからもわかる。

学生ボランティアは学徒出陣の再現か?

東京五輪と大東亜戦争との類似性については、他にも指摘されてきた。たとえば、金属供出を思い起こさせる「みんなのメダルプロジェクト」 や、メダルデザインと旭日旗を巡る騒動などが記憶に新しいところだろう。さらに、35度を超える猛暑にアサガオや打ち水・果てには人工降雪機まで持ち出してくるのが「竹槍」作戦のようだという批判も数多くある。

もう一つには、未成年者の強引な動員が「学徒出陣」を思い起こさせるという見解も、こじつけと断言できないところがある。

そもそも、2016年12月に策定された組織委員会の「東京 2020 大会に向けたボランティア戦略」によれば、ボランティアの対象として想定されているのは「障害者」・「児童・生徒」「働く世代・子育て世代」である。「児童・生徒」の項目においては、なんと小学生の参加まで言及されている。

さらに2018年3月に大会組織委員会は、教育的価値の高さから、ボランティアの中高生枠を設ける方針を発表している(東京新聞 ボランティアに中高生枠 東京五輪で大会組織委方針)。

2018年12月には、都市ボランティアの募集が足りなかったため、都内の高校生にボランティア応募用紙が大量配布され、一部で半ば強制的な動員があったのではないかという報道があった。(livedoor news 東京五輪のボランティア募集 都立高校生に応募強要か「全員書いて出せ」 )

これらのことから明らかなように、18歳未満の生徒・児童を無償奉仕させることが、当初から一貫して想定されているのだ。その一方で、上述の「ボランティア戦略」においては、社会的経験が豊富で時間的余裕があり、かつ実際に志願者も多いシニア層については言及されていない。他のボランティア募集について書かれた書類にも、シニア層への言及が一切ない(本間龍『ブラックボランティア』)。

学徒出陣と言えば、1943年10月21日、学徒出陣壮行会が行われたのが、明治神宮外苑競技場、すなわち現在の新国立競技場なのであるが、これは歴史の偶然なのだろうかBuzzfeed 学生たちの悲劇は、あの競技場から始まった 目撃した女性が託した想いとは

御手洗冨士夫―ブラックボランティアとブラック企業を繋ぐ線

ここで問われなければならないのは、東京オリンピックと先の戦争の類似性は、単に日本社会のブラックな組織体質に由来するものか、それともさらに深い意図があるのか、という問題である。

人脈的な観点から見ると、かなり興味深いものがある。組織委員会の主要関係者を並べると、森喜朗・安倍晋三・小池百合子・竹中平蔵ら、前回の「日本財団の研究 第零話 与党と野党の向こう側」で出てきた名前が多く見られる。ということは、関係者の多くが日本財団人脈だということでもある。実際、東京オリンピック・パラリンピックボランティアの中枢を担っているのが日本財団である。

さらに言えば電通・日本財団などを含めた運営体制は、極めて満州人脈色が強い。すなわち、戦時中の権力者たちの子孫が、75年後の現在、東京五輪を実現することで何を意図しているのか、そのように問うこともできるだろう。だが、こうした人脈的な背景については、近日発表する別稿に譲りたい。

今回、ボランティアとの関係で取り上げたいのは、御手洗冨士夫・東京五輪組織委員会名誉会長である。この人物は、第一次安倍政権時に経団連会長を務め、安倍政権を強固に後押ししたと言われた人物である。

当時、安倍と二人三脚で推進したホワイトカラーエグゼンプションは、残業代ゼロ法案と批判されながらも、ついに2018年、高度プロフェッショナル制度と名前を変えて法制化された。すなわち、10年以上かけてブラック企業の合法化を推進してきた張本人こそ、安倍晋三と御手洗冨士夫の2人なのである。

御手洗の思想が垣間見えるのが、憲法改正・教育再生・労働市場改革などを提唱した2007年の経団連レポート「希望の国、日本」、通称「御手洗ビジョン」である。このレポートにおいて興味深いのは、「愛国心に根ざした公徳心の涵養」を説く以下の記述である。

現在の教育において最も欠けているのは、克己心、公徳心の涵養という視点である。自己中心的な考えが蔓延し、他人に迷惑をかけないという最低限のモラルも確立されているとは言いがたい(中略)美徳や公徳心は、愛国心という肥沃な大地から萌え出る。(p.78-79)
子どもたちの公徳心を育てるため、教育の早い段階で、命の大切さや家族の大切さ、社会で生きていくために必要な素養や規範意識を身につけさせる。(中略)ボランティア活動を積極的に取り入れ、単位取得を認めるなど、若者が多様な社会活動に参加しやすい環境を整える(p.120)。


ボランティアについては、『御手洗冨士夫 「強いニッポン」』では次のように語っている。

自己犠牲の精神は、やっぱり、小学校のときにきちっと植え付けることだ。(中略)
「心の教育」は、やっぱり、学校や家庭でやらなければ無理だ。それも、10歳ぐらいまでが大事だ。ボランティア活動の経験も、10歳ぐらいまでにきちっとさせる。これは、義務教育の一環として、強制的にやらせていい。(p85-86)


こうした考え方が、第一次安倍政権時の教育基本法改正と連動していることは明確である。そして東京五輪も、愛国心と自己犠牲精神を植え付ける絶好の教育機会として位置づけられているのだろう。実際、「ビジョン」には次のような記述もある。

新しい教育基本法の理念に基づき、日本の伝統や文化、歴史に関する教育を充実し、国を愛する心や国旗・国歌を大切にする気持ちを育む。教育現場のみならず、官公庁や企業、スポーツイベントなど、社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し、これを尊重する心を確立する。(p.120) 強調は筆者)

そう考えれば、なぜ彼らが五輪ボランティアにおいてシニア層ではなく若者たちの動員に拘泥するのか、しかも高度専門職も含めて「無償」に拘り続けるのか、そしてなぜ労働環境が劣悪なのかも理解できる。対価を支払われたり待遇が良かったりすれば、それは「自己犠牲」ではなくなり、ボランティアの教育的価値がなくなるからだ。

御手洗冨士夫は、経団連会長としてブラック企業合法化を推進し、他方で組織委員会名誉会長としてブラックボランティアによって運営される東京五輪に携わっている。その背景にあるのは、「戦後民主主義教育によって権利主張するようになった利己的な若者たちを叩き直し、自己犠牲精神を植え付けるべきだ」という、歪んだ反人権思想そのものである。

そして、ブラック企業と東京五輪は、同じ搾取の構造を共有している。ブラック企業経営者は、社員に公共心を説き自己犠牲を強いながら、自らは労働基準法を遵守せず、不当かつ違法な利益を搾取する。東京五輪においても、委員たちは最高年額2400万円もの報酬を得つつ、未成年にまで酷暑の中で徹夜させ無償奉仕を強いる。自らよりも弱い者たちを利己的だと批判し自己犠牲を強要することで、彼らから暴利をむさぼる醜悪な「吸血鬼」が、この国の中枢を占める権力者たちの姿なのである。

「戦後レジームからの脱却」としての憲法改正と五輪

「御手洗ビジョン」において、公徳心の涵養を説いた教育再生のセクションで論じられているのが憲法改正である。そこでは、戦力不保持をうたった憲法九条二項を見直し、自衛隊の保持・集団的自衛権の行使を明確化することを要請している。この憲法改正の要請が、第一次安倍政権の改憲を目指す動きと連動していたことは言うまでもない。

2019年9月現在、千葉の台風被害を完全に無視しつつ進められた自民党の内閣改造によって、憲法改正への動きが加速している。9月11日、改造内閣の発足当日に、安倍首相は「憲法改正への挑戦」を記者会見で明言した。自民党幹事長代行に就任した「安倍の(元?)後継者筆頭」である稲田朋美が「憲法改正へ向けて全国行脚」すると語ったのも、同じ日である。

そもそも、安倍は東京五輪が開催される2020年の憲法改正を一貫して公言していた。(2017年12月19日 内外情勢調査会懇談会2019年5月3日 公開憲法フォーラム など)

東京五輪開催と憲法改正は、やはりワンセットとして位置づけられていると見るべきだろう。両者の内在的関係は、安倍晋三の政治理念たる「「戦後レジームからの脱却」から理解できる。

安倍が「戦後レジームからの脱却」について明確に説明した例は少ないが、「突き詰めて言えば、命をかけても守るべき価値の再発見」であると要約したことがある(2011年07月06日 第1回修学院政経セミナー)。重要なので前後を含めて引用する。

時には命をかける人がいなければ家族を守ることは出来ない。地域や国が今後存続していくことが出来ないということを彼らは身を持って示したんだろうなあと私は思います。戦後レジームからの脱却、これをね、突き詰めて言えば、命をかけても守るべき価値の再発見なんですよ。これが奪われた、私は、60年間ではなかったかと思います。で、この、正に象徴は何かといえば、○○○(聞き取れず)先生が言うには、まずは憲法ですね。戦後体制。戦後、占領下にあるときに私達の憲法は出来上がった。そしてもう一つは教育ですね。旧教育基本法を基本とする教育。そしてもう一つは経済至上主義ですね。(狂騒のパジェント 安倍氏が語った「戦後レジーム」のまとめ 強調は筆者)

「命を賭けても守るべき価値」があるということは、要するに、国民の生命よりも、国家や民族の方が大事なのだということに他ならない。ここで思い出すのが、稲田朋美の「自分の国を守るためには(国民一人一人が)、血を流す覚悟をしなければならない」という発言である。

また、「戦後レジーム」については、第一次安倍政権時の法務大臣・長勢甚遠が2015年、安倍晋三会長の創世「日本」における、安倍首相出席の下での発言も記憶に新しい。

(自民党憲法草案は)国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持すると言ってる。この三つはマッカーサーが日本に押し付けた戦後レジームそのものだ。この三つを無くさなければですね、本当の自立自主憲法に成らない

この思想が、2012年の自民党改憲草案における、「公益と公の秩序」による基本的人権の制限(第十二条)の背景にあることも疑いない。

要約しよう。安倍らこの国の支配者層はおそらく、次のように考えている

―すなわち、「民の生命と犠牲によって守られる国家」、それがこの日本の2000年以上続く国是である。ところが、その「日本の真の姿」は、GHQによって導入された日本国憲法と戦後民主主義教育、とりわけ「基本的人権」によって抑圧された。そうして、若い日本人は権利ばかりを主張するようになり堕落した。それが日本衰退の根本原因である。だから基本的人権を制限し、国家という超越的な価値を取り戻すことで、日本を復活させるのだ―

これが安倍政権の本質であり、安倍の政治理念たる「戦後レジームからの脱却」という言葉の意味である。安倍政権のあらゆる政策や行動、スローガン―たとえば「ニッポンを取り戻す」や、災害時における国民生命の軽視―は、すべてこの反人権思想を元に解釈される必要がある。

東京五輪という自己犠牲教育装置と、その運命的失敗

安倍晋三ら日本の支配者層にとって、東京五輪は「戦後レジームからの脱却」を行うための教育装置として位置づけられている。言い換えればそれは、基本的人権を自ら放棄し、国家の栄光のために喜んで自己犠牲する臣民を作る一大プロジェクトである。だからこそ、憲法改正と東京五輪はワンセットであり、東京五輪ボランティアの労働環境は無償かつ過酷なのである。

だが、彼らのもくろみが成功する見込みはゼロに等しい。

今から予言しておこう。東京五輪において私たちが見るであろうもの、すなわち国民に自己犠牲を強いる国家像の苛烈さと、常軌を逸した滑稽さである

よほど根本的な方針転換が行われない限り、東京五輪は大失敗を運命づけられている。現場ボランティアに自己犠牲を強いる限りにおいて、必ず酷暑の中で現場が疲弊し、オペレーションが崩壊し、日本の国際的信用は失墜する。それは、兵站を無視した旧日本軍の失敗の再現であると同時に、安倍政権が憲法改正によって目指す全体主義国家の姿を先取りしたものになるだろう。

だが、大東亜戦争とは被害規模が異なるにしても、東京五輪において犠牲に供されようとしているのは、若いボランティアやアスリート、そして観戦者の尊い人命なのだ。そのことを我々は忘れるべきではないだろう。

失敗が運命づけられた東京五輪のあと、いったいこの国に何が起きるのだろうか。安倍政権の権威が失墜するのか、それとも全体主義国家に突き進むのか。その選択は我々の手にゆだねられている。突き詰めて言えば、この社会を作る我々自身が、人命と基本的人権を最優先に行動するか否かが、その分かれ目であるに違いない。

おわびと挨拶

みなさんこんばんは。馬の眼@ishtaristです。初回から間が空いたこと、長文になってしまったことを心からお詫び申し上げます。仕事の多忙と体調不良が重なりました。その代わりにと言ってはなんですが、今回の原稿は無償公開とさせていただきます。

そんなに日本財団関係ないやんって突っ込まれるかもしれませんが、東京五輪をめぐる人脈的な研究は、別に書きます。ただ、今回明らかにした思想的な背景を知ることは、間接的に日本財団と彼らが推進するボランティアを理解することにも繋がるのではと思います。

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