見出し画像

魔女の宅急便

「魔女の宅急便」
角野栄子 作
林明子 絵
福音館書店

恥ずかしながら、原作を読んだのは初めてかもしれません…。

-——*-——*-——*-——*-——
キキが、魔女である母のコキリさんと父オキノさんのもとから一人立ちをする時がやってきました。キキと、友達の黒猫ジジは、お母さんからゆずり受けたホウキに乗り旅立ちます。ホウキの先にはラジオをさげて。
キキが、育った町とは別の町で、一人前の魔女として自分の生活を確立していくまでを描いた物語です。
-——*-——*-——*-——*-——

自分のことを知っている人がいない場所で、一から人間関係を確立して自分の居場所を作っていくというのは、誰もが、人生で幾度も通る道だなあと思います。
すぐ受け入れてもらえなくても、必ず親切にしてくれる人が1人は居て、自分のことを知ってもらうことで相手も徐々に受け入れてくれる。
思い当たる経験がいくつもあり、キキに共感しながら読みました。

キキのすごいところは、難しそうな依頼でも、「できるかわからないけど、とりあえずやってみる」という精神で引き受け、実際うまくやってのけるところだなと思います。
キキにお手本を見せてもらった気持ちです。

コキリさんが語る魔女とはどういうものだったかという話からは、「時代の変化」というものを考えさせられました。魔女にとっての黒猫は、まさに子どもが大人になっていく過程で失ってしまう、尊く大人になってから恋しくなるものだと思います。

それから個人的な発見もありました。
実は以前から、自分は本を読む速度がとても遅くなったと感じていました。それは電子機器に触れる機会が増えたことで、以前より活字に触れなくなったせいかなと考えていました。
けれど今回の「魔女の宅急便」は思いのほか、速く読めたんです。
それは、最近読んでいる本は、こむずかしい専門用語が多く、たくさんの思考を必要とする本だからかもしれません。
もちろん、「こむずかしい専門用語を使った、たくさんの思考が必要な本」=「レベルの高い本、すぐれた本」と言いたいわけではありません。
尊敬する瀬田貞ニさんによれば、児童文学と大人の文学は、描写の仕方がそもそも異なります。

「子どものころの文学」に一貫していることは、眼に見えるほど具体的な描写、単純で力強い動きで通すストーリー、会話や出来事のなかで浮きぼりにされる主人公の性格、というような文学上のあつかいかたです。おとなの文学は、それに反して、プロットがこみいり、心理がからまりあい、叙述がこまかくなって、読者に作者の内面をのぞかすようにしますが、子どもの文学はあくまで外がわの眼に見える必然的な動きによって運ばれます。

若菜晃子『岩波少年文庫のあゆみ』岩波少年文庫,2021.4.15, p.193

そして、松岡享子さんによると、子どもの本の読み方は大人とは異なるそうです。

子どもの本の読みかたは、おとなのそれとは違います。わかりやすいので物語(フィクション)を例にとって考えてみると、子どもの場合は、主人公と完全に一体化して読むのがふつうです。また、物語世界への没入の度合いが徹底しています。子どもは、主人公になりきって、すっぽり物語の世界に入り込むことができるのです。夢中になっているときは、それこそどこにいるかも、自分が何者かも忘れてしまいます。(略)主人公との一体化が可能なのは、子どものこの特性(「何かを何かに見立てる力」「何かになったつもりになれる力」「見えないものを見る力」)によります。すぐれた物語に出会えば、子どもは、文字通り「物語を生きる」ことができるのです。

若菜晃子『岩波少年文庫のあゆみ』岩波少年文庫,2021.4.15, pp.196-197

『魔女の宅急便』は子どもの文学であり、幼いころまでとはいかなくても、物語に没入した分、速く読めたのです。
最近読んでいる本は、哲学書や研究者が自身の研究をまとめた本が多く、第一に物語ではないうえに、作者の言わんとするところを自分の言葉に置き換えながら読む必要があります。
以前よりも活字に親しむ時間が減ったことは間違いないけれど、「読み方が違う本を読むことが増えた」のだなとわかって、すこし、ほっとしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?