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査証のない月


 イマネ・テノーはカメルーンに二七〇を超える民族集団の一つであるドゥル族の家に生まれた。乳飲み子である彼を背負った母親が切り開いた草木を、父親をはじめとする男たちが焼き払い、作物を植えた。雑穀類と芋類、豆、ウリが育った地は真っすぐな木が生えることのない乾燥地帯において神の御業のように感じられた。イマネは慣習に従い、一二歳まで〈女の家〉と呼ばれる家で暮らした。この家は地面に円形に水を撒き、土が平らになるようにしてからイネ科の植物を刻んで土に混ぜた壁土を盛ったものだが、母親も、ともに暮らす女たちもイマネを自らの子であるかのように振舞った。兄たちは親戚たちとともに近くにある〈男の家〉に住んでいたが、つくりの差は入口の前にコブ状の台所と水瓶、囲炉裏の有無に過ぎない。彼はドゥル族の暦、それぞれに名付けられた月を愛した。そして、粉にしてから団子状に成形しただけの茹でたモロコシも愛した。

 やがて、イマネは〈男の家〉で暮らすようになったが、これは窮屈であり、市場でヤムイモを売ることのほうが気楽なことだった。変化が訪れたのは、それから間もないことだった。最初に一番上の兄がいなくなり、次に年長の兄が、さらに次の兄がいなくなった。親戚たちは
「リンベ港の近くにある石油採掘場に仕事をしに行った」と口を揃えたものの、彼はそれが嘘であることを見抜いていた。

〈地中に住む虫〉と呼ぶ月、ウワールがぼんやりと地上を照らす頃、イマネはヤムイモを売ることで得た現金収入のほぼすべてを父親から渡され、生まれ育った集落を離れた。両親から伝えられたことは
「二度と戻って来てはならない」だった。夜の闇に紛れた彼は臆病な兎のようにしながら冷えた赤土で化粧する大地を歩き進んだ。砂漠を越え、町に辿り着くと、軍服姿の反対派を名乗る集団に出くわした。反対派が何に反対しているのかはわかりかねたが、それは集団に属する彼らにもわかっているようには見えなかった。イマネは集団を見た。拳を突き上げ、イマネよりも年少の子供たちを集める彼らに誠実さや公平さを持ち合わせているようには見えなかった。

 バンゴワ〈雨がたくさん降る〉と呼ぶ月の頃、イマネはニジェールの検問所に辿り着いたが、あたりは闇に包まれていたために野犬のように追い払われた。一晩、野宿した後、再び検問所に向かって役人に金を渡し、用意されたトラックの荷台に乗った。荷台には三〇人ほどの人々が身を寄せ合っていた。彼らの顔が異なるのは他人であるからというわけではない。習慣、信じる対象、言葉、これらの違いが他人であること以上に大きな溝として彼らを隔てていた。トラックの旅は順調だったが、ニアメに向かうはずのトラックはザンデールで停止した。トラックから降りたイマネは人々と同じように一列に並んだ。隣に立つ、背の高いコートジボワール人は頭部で円を描いていた。しばらくすると、ディスターシャに身を包んだアラブ人がやってきてフランス語と英語、それらが混ざった言葉を操りながら並んだ人々を一人ずつ見たが、その目は家畜を買う商人の目だった。イマネはアラブ人の「アーリット、ウラン、フランス」という言葉の意味を理解できなかった。アラブ人が彼の前にやってくると、隣で頭を振っていたコートジボワール人がイマネに寄り掛かって倒れた。地面に伏して側頭部を石にぶつけたイマネはコートジボワール人とともに気を失った。目を覚ました時、トラックは去っていた。コートジボワール人は舗装されていない道の脇に寝かされていたが、気を失っているのではなく、また、眠っているわけでもなかった。イマネは集落に帰ることを望んだが、それは叶わぬ夢だった。その日はバラック小屋の前に腰を下ろし、薄茶色のうねった道を眺めながら夜を明かした。

 翌日、やって来たトラックに金を支払って荷台に乗った。荷台には以前よりも多くの人間が不安げな顔をしながら肩を寄せ合っていた。トラックは道なき砂漠を進んだ。ハンドルを握るアラブ人は我が家の敷地と言わんばかりの顔だった。荷台に乗る人々は水が入った半透明のプラスチックの燃料入れの上に腰を下ろしていたが、これは金と引き換えた命綱だった。残忍な太陽光に照らされた人々の顔には苦悶が張り付いていた。しかし、不調や不満を訴える者は一人もいなかった。訴えた者は、気を失うまで殴られた挙句、砂漠に投げ捨てられるのだから。イマネが水と食料を得たのはエチオピアから来たビズネシュという名前の勇気ある原告のお陰だったが、ビズネシュは砂漠という判事によって裁かれて永遠の砂に溺れた。彼は眼前の現実を見ることを止め、故郷の集落に思いを巡らせた。モロコシとトウモロコシが山ほど入った穀物倉。父親が所有する、集落に住む誰よりも広い〈入口の間〉の前についた草の屋根。彼は荷台から月を見上げなかった。ただ、彼が愛した月を、暦を、何度も何度も心の中で復唱した。

 三日後の昼、暑さのあまりに頭を下げていた時、トラックが襲撃された。荷台に乗っていた人々は水が入った燃料入れを持って逃げ出したものの、運の悪い者が一〇人ほど死んだ。彼は岩に身を隠し、ただ、ひたすら災いが去ることを祈った。翌朝、トラックに戻ったイマネは同じように戻って来た人々と力を合わせて名前も知らない死者を埋葬した。その後、トラックはそれまでのことが幻であったかのように快調に走った。

 辿り着いたリビア南部の検問所は混沌としていた。トラックに乗っていた人々は不安と恐怖で疲れ果てており、動物を入れる檻のような収容所に連れて行かれても抵抗することはなかった。数日後、イマネは穴倉のような場所に連れて行かれて尋問された。軍服を着崩した男が
「家族に電話して、金を用意すればここから出してやる」と言ったが、イマネは首を縦に振ることをせず、このことが彼の立場をいっそう危ういものにした。彼はこの世にある、ありとあらゆる苦痛を味わった。コンクリートの塊を胸に押し当てられ、バールで歯を折られ、侵入を阻止するための高圧電流を背中に流され、ビニール袋をかぶせられた上に殴られ続けた。惨たらしい拷問を受けた後、冷たい床に転がった彼は血液とともに循環する不条理によって打ちひしがれた。

 転機が訪れたのは、それから半年後のことだった。収容所を支配していた軍人たちはある日を境に一人残らず消えた。まるで、神の怒りに触れた彼らが霧や影に変えられたかのように。外に出たイマネは自身が向かうべき場所を考えたが、安全を確保するためには海を渡る必要があった。彼は残っていたすべての金を支払い、人々でごった返した運搬船を改造した船に乗ってイタリア南部のランペドゥーサ島に辿り着いた。しかし、イタリアは彼を受け入れなかった。既に、島は難民で一杯だったからだ。上陸許可が下りない一か月間は船上で過ごした。生活に肉体的苦痛はなかったが、孤独と不安が彼を蝕んだ。その後、健康診断と手短な面談を終えたイマネは用意されたバスに乗った。向かうべき場所は誰も教えてくれなかった。

 彼はドーバー海峡の北海の出口に面したカレー港で船から降ろされた。だが、彼にはジャングルと呼ばれる不衛生な場所でごった返した人々を押し退けて突き進むだけの体力はおろか、生き抜こうとする意志すら希薄であり、ただ、人々の塊に押し流された。カレー港から離れた彼はラミ通りを歩き進んだ。通りの片側には有刺鉄線が張られた柵が立っており、その奥にはサクラやツツジが植えられている。木々の間からは犬のために建設された公園が見えた。また、平均台のような遊具の上を首輪がついた犬がおぼつかない足取りで歩いているのも見えた。毛並みの良い、イマネよりもはるかに人間らしく振舞う犬は尻尾を振りながら消えた。彼は直進し、白と赤茶色の建物ばかりのロンドル通りを歩いた。朱色の歩道は冷たかった。その後、彼はフルニエ通りとヴォルガ通りが交わる水路に面した場所を自身の家、居場所と定めたものの、屋根も壁もない。ただ、彼がいるという事実でしかなかった。  

 朝になると、カレー教会から食事が提供されることを知ったイマネは巨大な蛇のような列に並んで食事を得た。週末になると、教会の前でボランティアたちがテントを設営して援助を行った。そこで、彼は保護者のいない未成年には支援が受けられないことを知った。そして、国内法と国際条約によって保護者のいない未成年を保護する義務があるにも関わらず、フランス当局が対策を講じるどころか、手続きを煩雑なものにしていることも。力ない足取りで歩き回ったイマネは、市庁舎の前にある銅像に背を向けて腰を下ろした。銅像の五人の男たちは首に縄を巻いている。ローブ姿で、やせ衰えた肉体。オーギュスト・ロダンによって彫られた、死に直面した人間の瞬間は英雄的自己犠牲といったものから程遠く見えた。目を覆ったイマネは月を呼んだ。それは一月からはじまる。ホム・ナァ、ズム・ワァ、ズム・ナァ、ドゥグ・ドゥグ、ウワール、ワーバブ、バンゴワ、ナグブンニ、ナア、ジェドン、ズンブイ、ホム・ワァ。

 査証のない月にできることは、これだけだった。

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