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バロ・チャベス『蟹の甲羅』

 物語はこのようなものだ。主人公であるバルトロはケチで臆病な男で、泥棒であるにもかかわらず、盗む品物はいつも値打ちのないものばかり。この男には泥棒としての才はあるが、金貨や宝石を盗む度胸がない。二束三文のものをポケットにしまうだけで心臓は破裂寸前。読者は自身の胸に手をあてて自身の人生を振り返ってみるといい。おおよその人々はバルトロよりも悪党になるだろう。
 一六二六年の春。バルトロはトリニダッド広場の近くにある家に忍び込む。古ぼけた部屋は粗末な家具しかなく、老人が寝ているだけ。粗末な仕事しかしないバルトロですら舌打ちするような家ではあったが、憂さ晴らしのために一枚の紙片をポケットに放り込んで外に出る。バルトロのねぐらにはコンベルソやお尋ね者たちがひしめき合っている。コルドバの薄暗い街角は世界の悪徳を煮詰めたように輝いている。すべての悪徳には過去と現在、未来を超越する滑らかな光がある。彼らは同胞の帰りを、声を出さずに態度で示す。声は必要ない。仕草一つ一つに意味が隠されているのだから。我々と違って、無法者は明文化されなくては守ることのできない壁を必要としない。進むべき道を提示されることでしか前へも後ろへも進むことができない我々とは根本的に異なる。
 藁を敷いただけのささやかな領地に腰を下ろしたバルトロは月明かりを頼りに震える手で紙片をひらく。紙片には文字が羅列されている。もの言いたげな何か、言葉の断片、何重にも重ねられた複雑怪奇な比喩。バルトロは圧倒される。そして、即座に黄金以上のものを盗んだことを理解する。翌朝、彼は自身の罪に耐えられず、黄金をあるべき場所に返そうと決心して夕べの家に向かう。小心者が必ずしも正義や誠実さを蔑ろにするわけではない。時に、人は自らの利益を放り、利他的、英雄的行動に走ることがあるのだから。だが、家の前には下級貴族のような男たちが立っていて入ることができない。会話を盗み聞きすると、夕べの老人が亡くなったことを知る。バルトロは罪を悔いるが、時すでに遅し。その後、ねぐらに帰って紙片を何度も読み返す。
 
 髭と髪が伸び、季節が夏から秋へと変わる頃。薄暗い街角の男は異邦人に変わった。皺が寄って文字が霞んだ紙片を握りしめたバルトロはグアダルキビール川、ローマ橋の下に向かう。そして、岸辺でまどろんでいた掌ほどの大きさの蟹を捕まえる。ナイフで甲羅をはがすと、ゼンマイ仕掛けのからくりのような蟹の中に紙片を忍ばせて放す。蟹は泡を吹きながら緑がかった水の中に沈む。彼はトリニダット広場の家で臨終を迎えた老人がルイス・デ・ゴンゴラであることを知らず、紙片に記された一節が『孤独』からのものであったことも知らない。複雑にして難解、精緻な言葉の織物は泡と共に吐き出され、川を下って大海原、深海に住むアンモニアを振りかけたザラチン質の生き物たちに伝えて物語は幕を下ろす。

 バロ・チャベスは短編小説のみを書くが、私が知る限り『蟹の甲羅』が最も優れている。現在もチャベスは寡作ながら発表しているが、彼が著した作品がこの一作のみであったとしても不足を訴える者は多くないだろう。

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