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シウダ・ロドリゴから来た男

あなたがたに乾杯しよう
あなたたちは闘牛士とわかりあえる
どちらも望んで戦いに赴くのだから

 ファン・ガモーは闘牛士だった。彼は馬に乗って軽業を披露し、おかしな動作で観客の笑いを誘うことをしない、頭頂から爪先まで本物の闘牛士だった。冬の到来を感じたハクサンチドリが小さな硬い殻に姿を変えて土の中で過ごすように、泉からふんだんに湧き出た水が渋るように、すべての人と同じように衰えを感じたファンは引退して生まれ故郷のシウダ・ロドリゴで闘牛牧場をはじめた。彼は興奮剤を使わず、昔のやり方で牛を育てたために臆病な牛も多く育ったが、それも誇りだった。

 残酷な四月、結婚を機にアメリカに移り住んだ一人娘のミゲラから手紙が届いた。手紙には夫のガルシアンの仕事が順調なことや、息子のアーロンが五歳になったことなどが書かれていた。手紙を読み終えたファンは腹を立てた。なぜなら、手紙の調子があまりに英語的だったから。ファンは九年前に亡くなった妻、レヒーナの写真を見た。写真に映るレヒーナは結婚した当時のもので若く艶やか。幾分、はにかみながら笑っている。

「わしらの娘がこんな手紙しか書けないなんて、誰が予想しただろう?」

 ファンは手紙を破り捨てようとしたが、便箋の間にはロサンゼルスの夜景とロサンゼルス行きの航空チケットが挟まれていた。

 二週間後にファンがロサンゼルス空港に着いたのは夜の七時だった。ファンは疲れ果てていた。飛行機では眠ることができなかったし、隣の男は黙々と書類を眺めるばかりで気晴らしのお喋りは一度もなかった。入国審査を終えてゲートを通過すると、ミゲラとガルシアン、アーロンの三人が待っていたものの、彼らに向かって声帯を震わせることはしなかった。頭を振ったファンはガルシアンを見る。シウダ・ロドリゴの村では見ることのない細い背広にはうっすらと縞模様が浮かんでいる。笑みを浮かべたガルシアンが
「ようこそ、ロスへ。お疲れでしょう? まずは食事にしましょう。アーロン、おじいちゃんに挨拶はどうしたんだい?」と言うと、アーロンは眠たげに目を擦る。
「はじめまして、おじいちゃん」
 ファンはアーロンの頭を撫で
「あぁ……よろしく」と言った。ガルシアンが
「さぁ、お義父さん。荷物をこちらへ」と言い、ファンが持っていた旅行鞄を受け取り、颯爽と歩き始める。肩を上下に振ったミゲラが
「ガルシーはせっかちなの。父さんみたいね」と言ったが、ファンが聞き返したことで腹を立てたと感じたミゲラはすまなそうにした。

 ゆっくり進むエスカレーターに乗ったファンは戸惑う。闘牛士だった頃は何度も飛行機に乗ったが、引退してシウダ・ロドリゴで牧場を経営するようになってからはすっかり村から出なくなってしまった。彼にとって、見慣れないものは無限に等しい。ファンは顎に手をやり、自身の牧場に思いを巡らせる。牧場の働き手たちはバルセロナやカタルニアといった都会には一度も行ったことがない。村を出るのは家族が大病を患った時ぐらいであり、皆が皆、同じような顔をしている。飾り気がなく素朴。喧嘩っ早いのが玉に瑕ではあるものの、何日も根に持ったりするだけの執着心や陰湿さを持ち合わせていない。

 空港の駐車場に着くと、ガルシアンは真っ赤なシボレーを指差した。ファンがやれやれといった顔で
「突進したくなるような色だな」とつぶやくと、ガルシアンは笑みを浮かべる。
「まだ、一度もキップを切られていませんよ」
 ガルシアンがファンの旅行鞄をトランクに詰め、ガルシアンが得意げな顔で言う。
「さぁ、乗ってください。レストランを予約しておきました」
 ファンは後部座席に乗り込んだ。隣にはアーロンが、助手席にはミゲラが座っている。ガルシアンが楽しげに
「アーロン、ご馳走が待っているよ」と言い、アクセルを踏み込んだ。

 レストランに着いたのは夜の八時を少し過ぎていた。普段のファンならば幼馴染のワイン農家、ペーニャから分けてもらったワインを飲みながらコプラのレコードを聴く時間だ。ファンはさっさとベッドに入りたいと思ったものの、ミゲラを悲しませたくなかったし、ガルシアンの面子を潰すような真似もしたくなかったので、精一杯、上機嫌なふりをした。とはいえ、三十年近くもの間、シウダ・ロドリゴの村から一歩も出なかったファンに隠し事などできるはずもない。ミゲラが心配そうな顔で
「父さん、大丈夫?」と言い、ファンは曖昧な返事をする。間もなく、彼らの到来を待ち侘びていた食前酒や前菜がテーブルに並んだ。アーロンはレストランの壁に描かれた動物たちを不思議そうに眺めている。ファンが言う。「動物は好きか?」
 田舎訛りのスペイン語が聞き取れないアーロンは不安そうにファンの顔を見た。ミゲラが
「おじいちゃんは〈動物は好きか?〉と聞いているのよ」と英語で言うと、アーロンがうなずく。ファンが言う。
「この子はスペイン語が喋れないのか?」
「そんなことない。さっきだって、喋っていたじゃない? 父さんの方言がわからないだけよ」
「シウダ・ロドリゴは遠い……うんとな」

 四人は牛肉のワイン煮込みを突く。闘牛に向かないと判断した臆病な牛しか口にしないファンにとって、脂肪が多い牛肉を口にすることは禁忌を犯しているように感じられた。天井の隅で隠れるように設置されたスピーカーからはフラメンコが流れている。目の前のガルシアンは自身の会社が順調であることをしきりに語っている。やがて、自分のことばかりを話していたことに気付いたガルシアンが
「所で、お義父さんはどう思いますか?」と意見を求めた。ファンはこれまで一度も会社勤めをしたことがない。彼が精通していることと言えば、闘牛の育て方と殺し方だけ。ファンが言う。
「わしは昔の人間だから、昔のことを話そう。闘牛士だった頃の話だ。楽屋には色んな連中が訪ねてきた。いつも新聞記者がべったり張り付いていた。わしの写真は飛ぶように売れた。信じられるか? 俳優たちはわしの身振りを真似ようとしたし、画家や詩人も。ピカソは一度、レーリスとかいうフランスの詩人は二度。ヘミングウェイは三度。ヘミングウェイとは一緒に酒を飲んだ。あの男は狩りが好きだと言っていたが、あの男が好きなのはスポーツだ。目を見ればわかる。知っての通り、闘牛は牛を殺すが、狩りとは違う。狩りは失敗するかも知れないが、闘牛に失敗はない。たとえ、闘牛士が失敗したとして、別の闘牛士が殺すことになっている。闘牛は絶対に死ぬ。結末が決まっているものはスポ―ツとは呼べん。もちろん、闘牛士が死ぬこともある。ミゲラ、マヌエル・ロドリゲスを覚えているか?」
 ミゲラが首を横に振る。喉を鳴らしたファンが言う。
「奴は試合中、太ももに角が刺さって死んだ。これまで、沢山の連中が闘牛について書いた。ヘミングウェイもな。〈闘牛はスポーツ以上、芸術以上〉だとか、古代の神話を読み解くのだって、間違いじゃない。だが、わしに言わせればすべて余計な言葉、飾りに過ぎん。闘牛に関することは、たった一つの音節で事足りる。つまるところ……情熱だ」

 食事を終え、真っ赤なシボレーに乗り込んで三〇分ほど車を走らせると、三人の家が見えた。家は緩やかな坂の上にあり、芝生が植えられた庭もあるがシウダ・ロドリゴにあるファンの家に比べればはるかに小さく、おもちゃのように感じられた。自動車から降りたファンは
「酔っ払ったみたいだ。酔いを冷ましてから家に入ることにする」と言い、庭に生えた芝生に腰を下ろした。アーロン、ミゲラの順で家に入り、ファンの旅行鞄を抱えながら歩くガルシアンが
「後で、ゆっくりお話ししましょう」と言った。ファンは真っ暗な空を見上げる。夜を照らす星々の輝きは人の営みによって矮小なものになっている。遠くで点滅する自動車のライトや曲線を描いた街灯は眠りを否定する子供じみた抵抗のよう。ファンは口を開き、それを音節に乗せようとするが力は入らず、息を吸うことも吐くこともできない。そして、矢のような痛みが全身を突き刺す。

 黄金時代の宮廷衣装に身を包んだファンは細い廊下を歩いている。廊下の先では光が、歓声が待っている。うつむきながら近寄ってきた老婆がファンに紙片を渡す。しかし、ファンは紙片に書き殴られた文字を読まずに折りたたむ。彼は向かうべき場所を知っている。埃っぽい、あの場所で彼以上に振舞えるものはいない。落ち着いた様子のファンが己を鼓舞し、ムレータが舞う。ムレータは風に煽られているのではない。ファンが腕を微かに震わせ、動かしている。彼はムレータが勝手に舞い踊ることを決して許さない。誰かが言った。トーロは人の写し絵だと。臆病者には邪悪で陰険なトーロが写し出される。ファンの前に佇むのは筋肉で破裂しそうなほど膨れ上がった暴風。轟轟たる歓声が垂直に響き渡る。怯える砂が震え、地面が揺れる。トーロは塵をまき散らしながら赤い傘をさす砂塵、剣の墓場。やがて、剣がトーロの肩に没する。トーロは血を吐きながらその場に崩れ去る。さながら、薔薇が眠るように。痛みの帯が緩められた時、絶叫は放物線を描く。頭を垂れた騾馬がトーロの亡骸を引いていく。

 病室の生命維持装置が無機質な電子音を刻んでいる。ステファン・クルス医師は冷静な口調で
「よろしいですね?」と言った。疲れ果てた顔でミゲラがうなずくと、ガルシアンは妻を抱き寄せ、顔を背けたミゲラが嗚咽する。クルス医師はうなずき、生命維持装置のスイッチを切る。規則正しいリズムを刻んでいた機械音がいななき、ファンは苦し紛れに手を伸ばす。ミゲラは「ごめんなさい」と繰り返す。やがて、ステファン・クルス医師は五五回目の誕生日に妻から贈られたハミルトン社製の腕時計を見ながら「午前一時五八分、ご臨終です」と言い、トーロと同じ色の目が白い病室を包んだ。

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