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エトゥアール・チャトウィン『忘却』

 ブエノスアイレスに住む者は寂寥という言葉の意味をプエルト・マテロ地区の日没から知る。ラ・プラタ川をゆっくりと行き交うフェリー、萎んで垂れ下がるヒマワリのような街灯、どこからともなく聞こえる話声、投げ捨てられた声は紅く輝くラ・プラタ川の水面を滑りながら溶けて最後には気泡となって消える。

 エトゥアールと出会ったのは一九五三年の五月のことだ。当時の彼はラ・プラタ川の港湾労働者で、フランス語訛りのスペイン語で相手を口汚く罵ることでは右に出る者がいなかった。彼は結婚をし、二人の子供をもうけた後に離婚した。離婚の理由は金銭感覚の欠如だろう。アルゼンチン国民は皆が皆、金銭感覚が欠如している。これはアルゼンチン国民の問題というよりも怠慢な政府に問題があると言えよう。あるいは、南米諸国を産み育てた無計画なスペイン人か。家族から見放されたエトゥアールは一人気ままに生きた。

 一九六九年の一一月、エトゥアールの元妻、サラギナが私に相談をしにやってきた。当時の私は市役所に勤務しており、仕事は書類を整理するだけでしかないのに。彼女が言うには、これまで三日に一度は通りで見掛けたエトゥアールの姿が見えないことは彼の身に何か悪いことが起きたに違いないということで、つまるところ、彼を探してくれということだった。紋切型の探偵小説の導入のように感じられた。もし、私が読者であったとすれば廃棄を検討するようなものだ。それでも、日常にはないものが入り込むことは胸が躍ることでもある。私は友人たちにエトゥアールを見掛けたらすぐにしらせてほしいと伝えまわった。婚姻関係を解消したのにも関わらず、通りを数本挟んだだけの同じ地区に住み、おそらくは愛し合っていたであろう、エトゥアールとサラギナの関係はわかりかねるが。在りし日、雑踏の中で交わされた視線、顎を引いただけの挨拶、お互いに敵意も悪意もなかっただろう。サラギナはエトゥアールに愛想を尽かしたにせよ、愛そのものは尽きていなかったのかも知れない。

 二か月ほど経った頃、医薬品を病院に卸しているファン・モレイラからエトゥアールを精神病院で見たと伝えられた。私は仕事を切り上げた後、病院に向かった。病室でエトゥアールを見た時は愕然とした。彼が私をわからなかったこともあったが、彼自身、自分が何者であったかを忘れていた。彼は伸び放題の髪と髭に手をやり、奇妙な話をはじめた。話は独創性に富んでおり、思弁的で、ユーモアがあった。私は病院の近くでノートと鉛筆を買ってそれを贈った。彼は不思議そうな顔をしながら礼を言った。私が誰かわからないのだから、これは当然の反応だろう。
 
 一九九七年にこの世を去るまで、エトゥアールはあの日、私に語ってくれた荒唐無稽な物語を書き加え続けた。残されたノートの最初はこのように始まる。
 
〈わしの話を聞いてくれ。その昔、わしはウルクの王様だった〉

 老いたビルガメシュが自身の偉業を記した粘土板を探す冒険譚といった物語だが、舞台はブエノスアイレスである。彼の精神状態と呼応した物語は虫食いだらけだ。しかし、これは粘土板やクロスワードとは異なる。答えが明白ではない。この種の答えは情動や欲動、性愛といったもの、つまり我々の心の中にあるものである。そして、これは優れた書物に共通する条件だ。
エトゥアールがこの世を去ると、三〇年にも渡って書き加えられ続けたノートのすべては私の古い友人で読書会『金曜会』を主宰するオラル・モレルによって引き取られた。エトゥアールが入院してからというもの、サラギナは結婚して間もない頃のように彼を愛したが、彼の残したものには興味を持たなかった。彼女はエトゥアールを愛したのであり、彼が生み出したものは愛さなかった。それだけのことだ。このことを残念には思わない。病室でエトゥアールの傍らに座りながら話をするサラギナの顔には紛れもない真実があったからだ。
 
ノートが書物に飛躍する時、オラルから題名をどうするべきかと尋ねられたが、私は迷わず『忘却』と答えた。なぜなら、すべてのものは記憶され、忘れ去られる運命にあるのだから。

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