マイクロキャップ

起業を促すムードが定着してきた。ややもすればファッションのように賛美する空気さえある。それなりの母数があれば、その中からユニコーンが生まれることを期待できるという理屈もあるだろう。VCのビジネスモデルは投資先のいくつかがIPOを果たすことだ。すべての投資先の成功を願ってはいても前提とはしてない。愚かな考えではなく、やる気に敬意をと題したTechCrunchの記事はその厳しい現実を敬意とともに伝えている。ジャーナリズムの良識が健在であることを嬉しく思う。「我々のレポートの大部分は成功に焦点を当てている」と吐露しつつ、「みんなを褒め称えるということは、誰も褒め称えていないことになる」と締め括っている。

評論家がゾンビ企業と切り捨てたがる風潮は気分がよいものではない。競争原理を啓蒙していることは分かるが原理主義的な匂いもする。上場はしたものの伸び悩んでいる会社、数十年の活躍を経て役割を終えつつある会社もある。十把一絡げにゾンビと呼ぶのは失礼ではないだろうか。まして非公開の中小零細企業まで含めて淘汰を説く強弁にどれだけの人が賛同するか怪しいものだ。社会ダーウィニズムは苦手だ。上場企業は成長や競争力だけでなくパブリックカンパニーとしての信頼を確保するために費用や体制維持の負担が伴う。その負担が厳しくなれば上場ステージから退出することも致し方ない。投資家にリターンを提供できないと悟ることもあるだろう。しかし退出したからといってゾンビになる訳ではない。顧客や社員や取引先は健在だ。しばらくの間、停滞あるいは低迷しながらも経営努力の末、息を吹き返す企業もある。返り咲く例もスタートアップ同様に称賛に値する。

マクロキャップに留まる限り、機関投資家のプレッシャーによる市場活性化策の効果が出にくいとの指摘もある(野村資本市場研究所)。旧聞かもしれないが、今に始まったことでもない。ゴールドマン・サックスのキャッシー・松井氏(退任報道があった。次は何をされるか楽しみ!)も日経のインタビューで「GDPに比べ上場企業数が多すぎる」とコメントしている。IPO後の期待がいかに大きいかを思い知らされる。大海は広い。野心と謙虚さを併せ持つことを迫られる。かつて仕えたトップは「岬の先に立たなければ、水平線の向こうに何があるなんて思いもしない(だから岬の先に立ってみよう!)」と言われていた。

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