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『フランス組曲』(2016.1.8公開)

まずい。あと一週間で公開だというのに話題になり方が小さい気がする。ちゃんと紹介せねば。こういうときのために、わたしのようなちゃんちゃら映画評論家が存在するのだ、とってもミッションを感じる(本当)。私は作品にあまりに圧倒されてしまい、原作を読もうとして価格が高いので(原書がフランス語って高いんですよね3800円以上する)図書館の蔵書を調べたら、港区図書館に5冊も蔵書があって一冊も借り出されていなかった。それもちょっと悲しいわ。自分が借りてからその件書きたかったんだけど、時間がないからもう書いちゃうわ(冬休みになったらいちばんやりたいことだったのですが昨晩から熱を出して寝込んでしまい書きたくてイライラしてました^^; )

 なんか、見てから一週間ぐらい、手がふるえちゃって、この映画のことばっかり考えちゃってすごかったんですよ。心のやられちゃい方が。驚くべきポイントが、何重にも重ねられている。まず最初の層は、「フランス組曲」ってこのタイトルからは想像できないような内容だったこと。このタイトルと最初の展開からして、なんかベタベタのハーレクインロマンスっぽいのかな〜(フランスの占領下女性とナチス将校の恋愛ってロミジュリもいいところですからね)、それを収容所に送られる前のユダヤ人女性作家が書いたのかなあ……と思ってたらこれが全部裏切られる。いえ、ベタベタのロマンスの部分はエンタテインメントとしてちゃんと見せてくれるんですよ。でもそれ、上記のようなユダヤ人女性作家が書いたのだとしたら、それだけで、つまり王子様役がナチスの将校、というだけで「ナチスを一面的に悪者扱い」じゃない、っていう作家の視線からしてどこか超越してるよね。

 そこもすごいんだけど、結構たくさん出てくる登場人物に無駄が無い。そして、誰一人として、最初から最後まで同じ面だけ見せている、という人がいない。唯一変わらないのが最初から最後まで王子様で優等生なナチス将校のブルーノ中尉と最初から最後まで典型的にイヤなやつのクルト中尉なんだけど、この二人は二人で一つのキャラクター、つまり「ナチス」というものを背負っている。どこにでも、いい人と悪い人がいる。どの人間の中にも、善と悪がある。いや、その「善」と「悪」すらそう簡単にジャッジできない(できるのはフィクションの中だけ)占領された街で、「ごく自然に」「理屈抜きに」カップルになっていく街の女たちとナチスの兵隊たちとの営みは、そのことを語っているようにも思える。

 あ、そうだ、背景を書いてなかった。1940年6月10日、フランス政府はドイツによるパリ占領を無防備なまま放棄、パリ市民は地方への大脱出(「エクソダス」)をはかる。舞台となったのはその避難先となった中部の街ビュシー。同時に、独ソ休戦協定によって、この街には、ドイツ軍も進駐してくる。地主である女性(ヒロインの姑)は、借家人を追い出して、パリから着の身着のまま逃げて来た避難民に、倍値で家を貸すような女性だ。ヒロインはそんな暮らしに窮屈さを感じながら夫の帰りを待っているが、実は母息子に裏切られていた(すでに愛人がおり、子どももいた)ことを知る。そんなとき、この家に下宿していた若きドイツ人将校の情熱を、彼女ははねつけることができなくなる。ドイツ人将校は、毎晩、この家のピアノをあけて作曲をするような芸術を愛する男性だった……。

 これ、お話の1/3ぐらい。ここまで語って、やっと、話の土台が伝わったという感じだ。ドイツ軍に賄賂を送って将校の下宿を避けようとする町長、敵意むき出しだが脚が悪くて出征できない村の男、そして、上にも書いた姑にまで、周到に練られた結末が待っている。

 そして、このどんでん返しだらけのお話が書かれ、出版された経緯というのがもう一つのどんでん返しを加えている。この作品は原作者イレーヌ・ネミロフスキーが娘に託したトランクから21世紀になってから発見され、全世界で350万部のヒットになった。さらに私の推測を付け加えるなら、原作者イレーネは、フランスに住んでフランス語でこの作品を書いたが、もとは旧ロシア帝国(現ウクライナ)出身のユダヤ人でロシア革命の難を逃れて1918年にフランスにたどりついたということ。富裕層で革命のあおりをくったが、同時にロシアにおけるユダヤ人という立場もまったく安泰なものではなく(何度も「ポクロム」=虐殺、強奪を含む迫害の対象になっている)、おそらく、イレーヌにははじめっから「祖国」ましてや「祖国vs敵国」なんていう構図は頭になかったのではないか。そのことが、誰に対しても、自由自在に多面的な人間性を描き込む才能の土台になっているのではないかと思う。(原作を読んでいないのでぜんぶこの通りではないかもしれないけど、原作の書評を読むとある程度引き継がれているようだ)

 作品が出版されベストセラーになったとき、娘ドニーズは「ナチスは母を殺せなかった。母の勝利だ」とコメントしたそうだが、では母の勝利の理由は、母が勝利したことではなく「物語の勝利」に忠実であったことだと思う。彼女のメモの中に「1952年の読者も、2052年の読者も同じように引きつけることのできる出来事や争点をできるだけふんだんに織り込まなくてはいけない(なぜなら戦争はいつか終わるし、戦争に関する歴史的な箇所はいつか色あせるから)」と書かれているそうだ。原作には「ナチス」という言葉が使われていないという。イレーヌは「ナチス単なる悪者」ではなく「ロミジュリ」を意識的に選んだのだ。それがこの作品に70年どころか永遠に色あせない魅力を持たせたのである。

公式サイト http://francekumikyoku.com/

Photo: Steffan (C)2014 SUITE DISTRIBUTION LIMITED

 追伸・ところで、先月のテロ事件に対する当初のフランスの反応は、この映画の中に描かれたフランス人の姿勢、つまり、「我々を(外側から)侵略、占領しようとするものは許さない」というレジスタンスの姿勢からまっすぐに踏襲されたものだったように思う。GPシリーズ開催中のボルドーで、フリー競技の中止が発表されたとたん『ラ・マルセイエーズ』を歌い始めたフランスのスケート選手たちの反応は、まさにそうだったと思う。でも、70年たって、敵の姿は本当に変わってしまったんだよね。

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