何故石塚は研究室を解散させたのか(後編)

これが本テーマに関する最後の投稿になるだろう.平成のうちにとりあえず公開できる形には持って行きたいと思い,要点を纏めて?作成した.本来はもう少し書きたいこともあったのだが,締め切りとの兼ね合いで書けなかったことも多々ある.

前編中編では博士号を取るまでの過程を記した.今回は博士号を取ってから,2016年4月から2019年3月までの香川大学での勤務の話となる.

現在は大阪大学基礎工学の助教であるが,当時は香川大学工学部助教(改編により創造工学部になったが)というポジションであった.

前職では良いこと悪いことも含めて色々なことがあった.良い面も悪い面もあるのはどこの職場でも同じであろう.ある先生には「ここで働いたことが良かったのか悪かったのかは,定年にならないと思うけどそれまで頑張ってね!!」と言う言葉を頂いた.ファーストキャリアが香川大学で良かったかはわからないが,ここでの経験を活かして次につなげていきたいと思う.

ちなみにこれも書ける範囲の記述にとどめている.学内業務やプライバシーに関わる内容のような仕事上書けないことは書いていない.

何か質問等ある場合にはTwitter(ishizukaclass)にリプライして頂ければと思う.

2016年度(1年目)

惜しみながらも前宅を引き払った私は,引っ越しに関する支払いで満身創痍で香川県にやってきた.大阪大学の時も同じであったが,引っ越しに関する費用は規定上全額は出ることはない.給与や手当に文句を言ってもそう書いている以上はどうしようもないので,無駄な争いはしないことをお勧めする.当時の私は給料がもらえるだけで万々歳なのであまり関係はなかったが...

大学教員の本文はお金で争うことでは無く,学生を教育することと研究成果をあげることのはずである.つまらないことにはケチケチしないほうが良い.

到着して早々ガスが契約されていないことと荷物が無いことで,水で身体を洗いビニール袋にくるまって寝るという生活を送ることを余儀なくされた.引っ越し早々ひもじい思いをしたことは今でも覚えている.

4月1日から大学も始まり,辞令交付を受けて正式に香川大学で勤務することとなった.辞令交付式が終わると,「宜しく!!あとは頑張って!!」という感じで仕事をすることになった.これはどこの大学でも同じで,この4月にも同じようなことがあったが,2回目なので流石に慣れていた.

企業の新人研修では保険の入り方やビジネスマナーを習えるという話を聞くと大学との違いに驚くこともある.受講したいと思わなくもないのだが...

困ったこととしては,授業だった.当時,4科目くらい授業があったのだが,準備に結構時間がかかるので結構大変だったことを覚えている.この辺りは採用が決まった段階で早めに対応し始めるのが良いであろう.

現在の大学生は高校では行列を習っていないので,線形代数の基礎の授業は大変であった.線形代数の基礎だったら計算の手技を教えるだけでも別に良いと言えばそんな気もするのだが,何故こういう式が出てくるのかを教えることも重要だと考えて証明+例題で式の使い方の説明という形で授業を進めていた.数学を教えることが初めての経験かつ授業の内容が抽象的過ぎて,授業評価は酷いものであった.初年度の経験も踏まえて徐々に内容をアップデートしていって行き,授業評価も改善してきたのだが中々理解してもらうことは難しいと頭悩ませたと記憶している.

また,機械加工に関する授業についても苦労した点がいくつかあった.内容的にはパワーポイントを使って説明する上,あまり記憶に残らないのである.装置の詳細は使わないとわからないので,装置の名称,加工の原理,適用できる範囲,何が作れるかといったことを授業後も覚えていておいて欲しいと思って色々と試行錯誤したのだが,これも大変であった.授業資料をオンライン公開して,それを元に試験を受けるという形だったため,知識を定着させることは難しいのではと徐々に気が付いてきた.

最終的には前任者の鈴木孝明先生の方式の授業中にしっかりと書かせるという方式を取ったのだが,記憶する授業ではそれが正解だったと今でも思うことがある.この辺は上手い先生の御意見を伺いたいう.

当然の話ではあるが,授業については1年で良い資料を作ることはできない.最初から完璧な資料を作ることは難しいとは言え,当然ではあるが最初は時間をかけて本気で作ったことは良かったと思う.次年度以降は学生の受講の様子,理解度,試験の結果をもとに前年度の授業資料を徐々にアップデートしていく,これが授業資料の作り方の王道なのかもしれない.

次に研究であった.どんぶり勘定でなんとかなるだろうと,あまり深くは考えていなかったのだが,実は当時研究に関するテーマは何も無かったのである.特に大講座制であるため,基本的には自分の研究室を自分で回さないといけない.そうなると,ちゃんとしたテーマや方針を考えておかないと研究室が立ち上がらないのである.

博士課程でやっていたテーマについては興味や諸問題の関係から発展させる気も無く他の案は後輩にあげてしまっており,文字通り0からのスタートであった.

ここで後悔したことは3年しか触覚に関する研究をやっていなかったことである.3年間真面目にやることによって得られる知識というのは馬鹿にならず,もう3年やっていたらもう少しスムーズに香川大学での研究をスタートできたと思う.

当時,仕事上の上司的な感じであった下川房男先生には「着任してずっとサーベイをやり続けた時期があったけど一番楽しかった.」等の話を聞かされた.楽しかったかどうかはおいておいて,下川先生と同様に時間の大半をサーベイと思案に費やすこととなった.この時周囲にやりたい研究や行きたい学会に直接詳しい人がいなかったことも,苦労したことの直接の原因の1つであった.

香川大学で初めて知ったのだが,機関毎に論文の契約形態が違うのでアクセスできるジャーナルとできないジャーナルが存在しているのである.そのため,文献集めにだいぶ苦労していたことも覚えている.今でも香川大学ではアクセスできて大阪大学ではできないジャーナル等もあり,勤務する職場の契約状況を事前に確認しておくと着任後のサーベイを進めやすいだろう.アクセスできない場合にも対処する術はあるはずだ.

研究アイディアもなんとか纏めて着手するかという時に,梶本裕之先生に意見を伺う機会があった.この時にテクニカルなアドバイスや具体的な時期目標等を色々と言われたのだが,この時のアドバイスが実は後々も役に立っており,あの時ディスカッションできなければもう仕事を辞めていた可能性すらある.

博士号取ったとはいえ,1年後に新しいことをやろうとすると難しいことは多々存在している.テクニカルな難しさに気が付かないとドツボにはまり得る.そういう時にメンタリングしてもらえると研究を進める上で非常にやりやすくなる.

もしも,自分のところにそういう相談があった場合には,当時の梶本先生のように優しく教えて厳しく目標時期を提示したいと思う.この辺り,大講座制の非常に難しいところであろう.

この後は当時技官だった鈴木勝順さん(現:スピードラボ)に手伝ってもらいながら研究を進めて,次年度にはなんとか国際学会での発表に辿り着くことができた.

研究の見通しが立った頃,研究室に2名の学生が配属されて研究室も始動した.まぁ,約2年後には無くなるのだが.早々と年度末にWorld Haptics 2017のデモ発表に関する機材開発を学生と行った.これには次のような思惑があった.

まずは,私と3人でとりあえず自分の限界以上の仕事をやってみようということである.今の自分でどこまでできるかを測ることができれば,次はどこまでできそうか?あるいはどのくらいやればこれ以上のことに辿り着けるか?を把握して意識できるようになるはずである.

次に,世の中の人たちがどう動いているかを知るということである.近隣に大学が多くなく繋がりが薄いような場所であれば,自分とおおよそ同年代の人達がどういうレベルでどのくらいやっているかを把握することは困難である.国際学会に参加して,外部,特に海外の学生がどういうことをやっているのかを肌で感じてもらって,自分の意識を外部へと向けて欲しかった.

ちなみに1人は外部に意識が向きすぎて関東の大学の大学院に行ってしまったが.しかし,希望する企業に入れたと風の噂を聞いたので結果的には全然OKである.

つまるところ,自分の能力を把握して設定した目標をどう解決するかを考えて実行できるようにしたかったのである(これは後付けかもしれないが).

大学院に行かない学生はあまり相手にされない等世の中の研究室には色々とあるのだが,選り好みしても研究は進まないし,そもそも選り好みする程人気があったわけでもない.私の方針として"研究室の学生はある程度の水準以上になって成果を出す"と決めて学生を指導することにした.

最後に予算の話を少し.2016年度に科研費のスタートアップが落ちてしまい,かなり早い段階で年度末退職が頭をちらついたのであった.

一応,科研費の若手(B)と財団関連の予算を出していたのだが,これが通らないとどうしたものかという状態であった.ほぼ周知のことかと思われるが,地方国立大学は大学から個人研究者に配分される研究費の額が非常に少ないのである.この額で研究して論文を書いて掲載料を払うことは不可能であり,外部からの予算が無ければ,仕事にならない.この時ばかりはテーマをかなり綿密に考えて,吉村英徳先生にかなり添削をして頂き,できる限りのことはやった上で申請書を提出した.

結果的には予算は取れて,次年度はそこそこ発表をすることはできた.では,この時予算を取れなかった本当に辞めていたかと言われると,わからないというのが答えである.自分の給料を寄付金にして研究費に回すという禁じ手を使えば数年は研究を継続できたはずで,手は無かったわけでは無いし,他にも手はあっただろう.諦めるのは本当に万策尽きた時である.

2017年度(2年目)

2年目に入ったが特に変わったことも無かった.授業も少しは慣れてきて,学生が躓く点等が多少わかるようになってきた.

幸いにもWorld Hapticsにはポスターとデモが採択されて発表に行くことができた.発表は無事終わり,学生も学会を通じて得るものがあったようであった.自分も少し考えることがあったのが.

この年から研究室の活動が本格的に始まったのだが,上手く行く面もあればそうでない面もあった.いくつかの項目に関して記していく.

1. 研究室共通の講習会を開催しなかった

現所属になってから研究で使うと思われるプログラミングの講習会があり,他の大学の研究室でも電子工作の講習会をしているところもある.当時の私は必要があれば学んでくれるかなと思いこの類のものを開催しなかったのだが,それはある意味間違いであった.

講習会を開催するということは,使うか使わないかは別として勉強する癖をつけることと研究室のコアの技術を習得するということである.特にプログラミングや電子工作のような汎用性の高い技能は卒業後も財産になるはずである.この辺りを考えずに,行き詰った学生に電気回路やプログラミングをマンツーマンで指導を行っていた.

助教のように業務負荷が少なくまた学生の数が少ない場合には教員のマンパワーで解決できるのだが,職位が上がり人数が増えた際には対応することは難しい.ある程度この辺りをシステム化しておけば,学生も研究がやりやすくなり先輩ともすぐに馴染めるようになったかなと今でも反省している.

2. 研究室のテーマが共通化されていなかった

研究室の学生には基本的には好きなテーマをやっていいという話をしていた.実際に話をすると好きなテーマ=やる価値のあるテーマではないので,ディスカッションをして方向性を再考するということも多々あった.

学生のモチベーションを維持するというところでは好きなテーマ,適性のあるテーマをやるということは良いのだが,問題は学生のテーマ間に関連性が薄く結局私しか対応できないという形であった.他の先生方にも御指導頂いて対応したのだが,基本的には私と各学生の2人でやっていた.そのため,学生間の論文の添削指導等はあったが,お互いに助け合うという形にはできなかった.

大学院生が学部生をメンタリングするという仕組みを作っておけばよかったのだが,そのあたりも練られておらず組織としてはあまり上手く回せなかったことは反省している点である.しかし,学生が好きなテーマでモチベーションをもってやってくれたからこそ,投稿中(2019年4月現在)のものも含めてそこそこ成果が出たのだとは思う.

3. ゼミや進捗報告会を開かなかった

これは最大の失敗だと思っている.そんな研究室あるのかと思われるだろう.これは博士課程後期の研究オールイン生活の弊害である.

あの時M2の学生と毎日研究をして面白い論文の話をし続けていたせいで,

"論文は自分で探して勝手に読むもの" "実験データは取れたらすぐにディスカッション"

ということが普通であり,そうでないほうがおかしいと思っていたのである.

確かにこれは研究をする上では非常に良いことであるのだが,研究にオールインすることは普通ではない.つまりあのM2の学生は普通ではなく変わっていたということだ.

この辺りの導入が無いと配属されて間もない学生は面食らうであろう.実際は,学生に研究に関連する思い白い論文を渡したり実験後にデータはどうか個別に議論していたので研究を進める上では特に支障が無かった.しかし,これも教員に比較的時間があり学生の数が少ないからこそ可能なことであって,人数が多い場合には通用しない方法であろう.

とは言え,学生がデータもってきてディスカッションしてきたり,読んだ論文の面白さを教えてくれたりということもできたので自主性に任せたとことは悪いことだけではなかったということも記しておく.

4. 積極的に国際学会に投稿した

予算があったからできたことであり未来永劫できることではないが,これは非常に良かったと思う.前にも書いているが学生の意識を外に向けさせるというのが私の教育方針であった.そのため,締め切りを研究成果を出すためのマイルストーンとして,世界中から多くの人が参加する国際学会に参加することは研究と教育の観点から非常に良かったと思っている.

実際に国際学会に参加して(デモやポスターではあるが)得るものがあった学生は帰国後も意欲的に研究を続け次の学会やジャーナル投稿を目指して研究活動をするようになった.

ちなみに,諸説はあると思うが,この経験から研究に関する意識と成績には必ずしも相関性はないかもしれないと思うようになった.とは言え,成績は良いほうがいいに決まっている.

国際学会で発表することを特権だと言っている人もいたが,この辺りは書き方と採択率でカバーできるので私はそうとも思っていないし,誇ることもなかった.

一部では私がそれで偉そうにしていると思っている人もいたが,上には上がいるのでいつも精進が足りないと後悔していただけである.そういわれるとただただ聞いてて二重の意味で虚しいだけであった.

5. 研究テーマに確実に収穫できるものとそうでないものを設定した

安定して成果になりそうだけど,少し頑張ってみたらまた新しいことに繋がりそうなテーマを混在させていたのである.前者は触覚ディスプレイ関連の話で,後者はシミュレーションやアクチュエータ関連の研究のことである.同じことをやり続けるのも良いのだが,自分の中では何ができるのかと何をやりたいのかがイマイチ定まっておらず,半分は新規開拓という形を取っていた.こうすることでどちらかが終わる,あるいは上手く行かない場合でも研究室として研究を続けることができる.どちらに優劣をつけて研究をしていたわけではなく,どちらも論文になるように指導は行ったし,採択されたものもあれば投稿中のものもある.あとは学生の個性に合わせてテーマを考えていけば良いだろう.挑戦的な学生もいれば堅実な学生もいるはずである,個性を尊重し最大限に発揮できることがベストである.

ちなみにデータが取れてから論文を書こうと考えるよりは,なるべく毎年コンスタントに短くてもいいから論文を書いていくと決めて指導を進めていくほうがいいと思われる.とりあえず業績を作れる体制を作っていかないと研究の発展や資金獲得が難しくなっていくのではないか.更には少しづつでも研究が進んでいくような体制でなければ,学生から見ても活気のある研究室には見えないであろう.最初が肝心なので,新たにスタートアップする方は無理をしてでも,コンスタントに業績を積んでいく体制を目指して欲しい.

大学院に行く学生は修了までに投稿論文を1本以上書かせるのが良いであろう.学部で卒業する学生については引き継がせるか,その時点で短くても論文化するか,この辺りの判断は適切すると良いであろう.ちなみに,引継ぎが上手く行かない可能性も考慮しなければいけない.

この辺りに研究室を解散させた理由を匂わせるような記述があるが,そこがラボを解散させた理由である.如実に実感するようになってきた2017年度末,そろそろ次の身の振り方を考えるようになってきた.

2018年度(3年目)

3年目になると組織改編で自分の所属する学部の名称が変わった.変わったことと言えば後期に実験科目が1つ増えた.

この頃,まだラボを持つ域に達していないと思い,2019年度末退職で学振PDを申請するための準備を進めることにしたのであった.学振PDは採択率が20%程度なので分の悪い賭けになるかもしれないが,公募は特に見ていなかったので海外にも行ける学振PDをメインに考えていた.実際,大阪大学の公募を出す前の11月頃に受け入れ予定先との本格的な調整も行っていた.

職場の人には辞める辞める詐欺だと思われている節があり,本気であることに気が付いている人はそれほどいなかったようであった.私は止まらない.

研究に関しては特に変わることも無く,淡々とという感じであった.書くことがあれば研究室全員でEuro Hapticsに行って発表してということくらいであろうか.ローマ空港着陸の遅延の関係で道中大変であったが.

何故か触覚の研究をしてない学生が静電触覚ディスプレイの大御所のコルゲート先生を見て喜んでいたのは面白かった.

他に書くことがあるとしたら大場晴夫先生と仲良くなったことであろうか.ちなみに大場先生は読者の研究室でも使われている可能性のあるデジタルペーパーやプロジェクタの開発に携わっており,ほんの少し前まで製品開発の最前線で仕事をされていた方である.

ある学会を香川大学で開催することになったのだが,その時に招待講演をすることになった.その時にお声がけさせて頂いたのが大場先生である.こちらからアポを取って講演依頼し,快諾頂いた.参加者からは大変好評であり,香川大学の学生は一度話を聞いてみることを強く推奨する.

大学の間に製品開発の最前線(しかも,自分がもっているもの!!)で働いていた人の話を聞くことは,就職を考える際にも絶対役に立つはずである.

ちなみに,これはある意味大講座制の緩い繋がりだからできることであり,小講座制の大阪大学でも同じようなことができるのかは少しわからない.

このコンパクトさからくるフットワークの軽さで,思わぬことができることがあるというのは勉強になった.

他にも大講座制の緩い繋がりを上手く使えば研究の連携をすることができ,有限要素法解析が得意な吉村先生やアクチュエーターが専門の佐々木大輔先生とも上手く共同研究をすることができた.緩い繋がりだから捕まってしまった案件もあるのだが...

また,他の学科の先生と飲みに行く機会も何故かあった.

逆に言うと私も他の研究室の学生の指導の協力や実験装置の貸し出しをすることもあったわけで,今も引き受けている案件もある.

スタートアップ(特に初心者)は大変ではあるが,上手く連携できれば大講座制は研究や仕事を進める上では良い面もあったことは強く記しておきたい.そこは自分の能力・特技と交渉力次第.

この後は公募出してたまたま採用があったという流れである.最後に辞めるに至った理由を繰り返しになる部分もあるが書いておこうと思う.この辺りは甘えるんじゃない等お叱りはあると思うが御了承頂きたい.

やはり,自分の能力を高める必要があったことと研究室運営の方法を学んでおく必要があったということである.

前述したが研究室の運営をあまりよく考えていなかったので,非常に効率の悪い部分が多々あった.博士課程では気向くままに研究をしていて,あまり運営とはについて考えることはなかったのである.非効率な運営によって,自己研鑽のための時間を無くしていき,研究室を発展させていく自信がなくなってしまったのである.ある意味で負のスパイラルであったと思う.とは言え,自分の責任でしかなかったので,非は大体自分にある.自分にあったキャリアを選べなかったことが今回の敗因である.学生にとってはプラスになったと思うことはいくつもあるのだが,この経験が自分にとってはどれだけ良かったかと言われると今の段階ではわからない.

現職は小講座制であり,教員や秘書との連携もあるので,自分に足りなかったものを見直して,次に繋げるためには良い機会であると考えている.特に今回の研究室は研究分野も近く,前職ではあまりなかった研究に関して直接学ぶことも多くありそうと期待もしている.

場所を変えたことは逃げと言われても仕方ないが,自分のこの先を考える上では再度学ぶ必要があった.

今回は研究室の方針の良いところは吸収して,その間に自分のこの先30年間にやるべきことを見つけなければいけない.

研究室を持つ日はそう遠くない未来であると信じている.第1期は敗れはしたが,第2期ではもう少し大きく活動していきたい.

ちなみに,前職は公募を出した後に,学科長には相談を行った.急な公募への応募であり次年度に影響があるので,対策を考えて頂き非常勤講師等の私に対応できる分は引き受けることとした.なるべくソフトランディングで終わらせるように動いておく方ことを遺恨を残さないためにもお勧めしたい.

研究室の学生については事前の調整もあり,所属は変更になったものの理解ある先生の下で大半の学生は継続して指導している.

彼らはWorld Haptics 2019で発表するかもしれないので,参加される方には厳しく御指導を頂きたい.

彼らに関しては非常に責任感を感じてはいるが,希望する進路に進めたと報告があり安堵した一方,今後も卒業や修了まで頑張って指導する.

彼らにとって一番良いことは,研究の成果を出すことよりも希望する進路を歩めることのはずである.希望する未来のついでに論文が書ければいい,といかう書きましょう.

さて,書いていて気がついたことであるのだが,3年に1度機関移動していたようである.次も3年後か,これで終わりか.それは時が進まなければわからない.

つたない文章ではあったが,ここまで読んでくださった読者の皆様には感謝するとともに,本文に出てきたか否かは問わず御世話になった先生方には感謝の気持ちを述べて,一連の忘備録の締めとしたい.

(おわり)