何故石塚は研究室を解散させたのか(中編)

前回修士課程までの話を記した.中編は博士課程での話を記す.何故3部作構成にしたかと言われると,行動を示すことでその因果関係を可視化できるはずだからである.可視化は自分が暇な時にやるのか,読者がやるのかは不明であるが...

別件で御世話になった白井先生に平成最後のという枕言葉を付けて頂いたので,4月中に完成できる速度で執筆を進めることとした.ちなみに別件の対談の方も,大学入試を目指す高校生や就活生にとって有益な情報が散りばめられているので,興味がある場合には御一読頂けると幸いである.意外と真面目に社会問題等について話した...ような気もする.

繰り返しにはなるが簡単な自己紹介をすると以下のようになる.

名前:石塚裕己(Twitter: ishizukaclass)

学位:博士(工学)

所属:大阪大学基礎工学研究科

役職:助教

研究分野:触覚関連,ソフトロボット関連

読者の想定としては,これから研究室に配属される学部生,研究室を移ることを検討している大学院生,博士号取得付近の大学院生であろうか.私のような平凡な人間が研究者として生き残れている理由もこの文章から読み解けるかもしれないし,自分でもそれは把握したいところである.

質問がある場合にはツイッターアカウントにリプライをして頂ければいくらでも回答する.役に立つかはわからないが.

慶應義塾大学大学院理工学研究科博士課程後期1年目

今から遡ること6年前の2013年4月,慶應義塾大学院の博士課程後期に進学した.別な大学に進学した理由については前編で記しているのでここでは割愛する.当時の自分には成し遂げたい大志があったのだ.

4月の段階で言われたのは,最初にD1で試作品を完成させて論文を1本投稿,D2で完成品を作って論文投稿,D3ではもう少し研究を進めて論文投稿してから博士論文を書きましょうということであった.異論はあると思われるが,このスケジュールが当時目指すべきマイルストーンであった.

基本的には研究室を移って研究分野が変わった場合には,最低限このくらいの進捗で研究を進めることを考えるほうが良いであろう.継続する場合には,これ以上の進捗で学位の取得を目指すことを考えるほうが,後々を考えると良いはずである.

当時研究室では英語で輪講を行うという制度があった.英語をまったく喋ったことが無い自分は英語で輪講ということに困惑した.

そんな中,先生からの提案で私にダブルディグリーという制度でイタリアからやってきた助っ人外国人のニコロと半年間ペアを組むこととなった.ちなみにダブルディグリーとは自分の所属する大学と海外の大学の修士課程の両方に在籍して,両方の大学の修士号を取るという制度である.

さてさて,このニコロ,非常にマイペースではあったが英語も喋れて研究もできて非常に有能であった.負けるものかと,私の方も必死に研究に打ち込んでいた.お互い我が強い部分もあって色々あったので喧嘩もしたような気もするけど,色々と配慮してもらったような気もする.なんだかんだ良い凸凹コンビだったのかもしれない.ちなみに夏休みにはマリーナベイサンズに行っていた.海外の人は余暇を楽しむというのは本当らしい.

そんな彼と半年間会話をせざるを得ない状況に追い込まれれば,何となくでも英語は聞き取れて喋れるようになってくる.実はニコロ以外にも,インドネシアから来たポスドクのグナさんとメキシコから来たカルロスともよく話をしていた.特にグナさんには息子の幼稚園のお便りを英語訳して説明することをよく頼まれており,これもまた英語能力を向上させる上で大変有意義であった.余談ではあるが,グナさんの息子は仮面ライダーWが好きということで当時仮面ライダーWの話題で盛り上がったことを今でも覚えている.

そんなこんなで研究は順調に進んでいた.しかし,ある日実装面で困ったことがり,先生に相談をすることにした.

「博士課程後期なんだから自分でやって.博士課程終わったら誰も基本的には助けてくれないんだから自分でなんとかしないとな.」

回答はこれだけであった.当時の自分は「またこのパターンかよ...」と思ったはずである.この言い方が正しいのかがどうかはわからないが,自分がもしも博士課程後期の学生を指導することがあれば,同じことを言うだろう.自分が面倒を見れるのは3-6年間でしかないので,そこで独り立ちできる素養,少なくとも兆しを身に着けられないのであれば今後研究の道で生きていくことは困難であろうと好意的に解釈している.とは言え,どの指導方針が適しているのかは人それぞれ,このやり方は自分には合っていたと今でも思う.

2013年も終わりに近づき,2014年へ.この頃には投稿論文1本分のデータも集まり,当時創刊されたばかりの機械学会の英文誌へ論文投稿する方向で話が進んでいた.ちなみに2013年の年末はノロウイルスによって生死の境目を彷徨っていた.

論文を書いて先生に見せたところ,序論が上手く書けていないというコメントだけが返ってきた.「序論さえしっかり書ければ論文はは通るから序論さえ書ければ大丈夫」と力説された.当時の自分はそんなことあるのかなぁと半信半疑で序論を直していたように思う.

経験を重ねて気が付いたのだが,序論を書くということはかなり大事なことで序論で研究の価値が説明できていなければ如何に素晴らしい実験結果があっても論文は通ることはないのである.

世の中には色々な流儀があるのでその良し悪しについて議論するつもりは毛頭ないが,この時の経験から研究を思いついたら徹底的にサーベイをして序論をおおよそ固めた状態で研究に着手することが習慣となった.とは言え,この方法だと研究に大事な遊び心が失われるので,あまり良くないような気もするので悪い面もあることは記しておく.

2月くらいに無事に機械学会とEuro Hapticsへ論文を投稿し,なんやかんやで1年目は終了となった.

この年も学振DCは通らなかったので,ひもじい生活をしていて段々と暗い気持ちに沈んでいったのもよく覚えている.しかし,実はアルバイトができるという環境のおかげで専修大学の相澤先生の下で生化学実験を少し勉強できたということは後々の人生の共用を深めるという意味では非常に役に立った.PCRと言われればおおよその作業は思い出せる.

慶應義塾大学大学院理工学研究科博士課程後期2年目

博士課程後期も2年目になり,そろそろ勝手もわかってきた頃であった.当時研究室では必要な資材を調達して,"安全であれば"自由にモノづくりをすることが許されていた.新しいアイディアを具現化できる環境というのは非常に快適なもので,この時期にはそれを少しづつであるが享受できるようになってきていた.研究も1年目の後期に新しい加工方法を思い付き,そのためのデータ取りを進めており順調に推移していたと記憶している.

昨年度末にEuro Hapticsという国際学会に投稿していた論文が採択されたのであった.Euro Hapticsは隔年でヨーロッパで開催される触覚系の国際学会である.何故か日本からの参加者が最多となる不思議な国際学会である.ちなみに昨年度諸事情によって飛行機に乗れず脱落したEuro Sensorsは日本人の参加者はさほど多くない.日本の触覚コミュニティはどうしてもヨーロッパに行きたいようだ.

ちなみにこのEuro Haptics 2014,ある意味私の人生の転機になった学会だと今でも思っている.

記憶では日曜日の夜のエミレーツ航空のフライトでドバイ経由でフランスのシャルルドゴール空港へ向かった.シャルルドゴール空港からタクシーでパリ市内へ向かったのだが,空港の近くに某鼠帝国フランス支部があり便利だなと思ったり,タクシーの車窓から見えるフランス語の看板に異国情緒を感じていたのを今でも覚えている.

この時初めて触覚関連の国際学会に参加したのだが,色々とカルチャーショックを受けた.学会と言えばスーツだと思っていたのだが,ジーパンにTシャツのドイツ人がポスター発表をしている姿を見て,学会毎の文化の違いを肌で感じることができた.

さて,話を戻して何故Euro Hapticsが自分の記憶に鮮烈に残っているのかというと初めて研究関連で友人ができたからである.この時まで,触覚の研究をしている同学年の研究者がいるという事実を知らなかった.

今まで同じ年代で似たような研究をしている人がいるということは全然意識することは無かった.しかし,Euro Hapticsに参加してそういう人たちがいるということに気が付けたのは大変良かったことだったし,励みにもなった.特に,当時梶本研の岡崎龍太君(現:会社員)には触覚関連の学会にはどういうものがあるのかといったことや梶本研のオープンラボについていろいろと教えてもらった.この情報が後々役に立ってくるのだが,それはまた別な話である.

当時の経験から特に博士課程の学生は少しでも知り合いを作るほうがいいのではないかと思い,触覚研究をしている学生をみつけては触覚若手の会に勧誘しているのである.怪しい集会ではないので,興味がある方はコンタクトを取って頂ければ幸いだ.

友人もできて,非常に意義のある学会であった.しかし,会期中の質問から自分の研究の意義はどこにあるのか?意義のある研究をするためにはどうすればいいのか?ということを考えさせられる学会となった.ちなみに帰国後はフライトの遅延のため,終電が無く羽田空港で夜を明かすという事態となった.羽田空港の終電ぎりぎりに到着するフライトは使わないことをお勧めする.

博士課程後期の2年目にあったもう1つ特筆すべき事項としてはSICE SIに参加したことである.SICE SIは計測自動制御学会のシステムインテグレーション部門の部門大会であるのだが,何故か触覚系セッションが多くお触りの発表が多い等言われていると小耳に挟んだことがある.

この学会で発表した際に,君の研究の新規性は他のと比べてどうなんですか?という質問をされたことがある.当時はグヌヌヌ...という気持ちになったことを覚えているが,自分の圧倒的サーベイ不足に起因する問題なので,そこは大いに反省したことを覚えている.この時質問をした先生とは今でも仲がいい.質問が厳しいことと普段のふるまいが親切ということは別であるということを身をもって体感するいい機会であった.

しかし,5年前に戻ってSICE SI 2019の副幹事をやることになるぞと言ったらなんのことかは理解できないであろう.実際私もいまだに本当に自分がやるのか半信半疑である.というか,嘘であってくれ.

そうこうしている間にこの年度も終わり.年度末には博士論文のための2本目の投稿論文を書いて,投稿しようとしたところで色々あったのだが,これについては次年度の話で述べることにしたいと思う.

慶應義塾大学大学院理工学研究科博士課程後期3年目

ついに博士課程も最終年度になった.ちなみに,今年度で博士号が取れないようであれば,もう博士号を取ることは諦めると決めていたことを覚えている.基本的には取れそうなペースではあったのだが...

この年にはMSRのミーティングに何故か行ってみた話や藤原奨学金なるものをもらって慶應内に友達が増えた一方である先生に未来永劫会うことになることになるとか色々なことがあったはずである.その中でも印象的な事項を2つ抜粋して書いておこうと思う.

4月に入り,そろそろ就職を考えるかという時に,とりあえず学振PDを申請することとした.その時にアポを取ったのが明治大学の宮下芳明先生であったのだ.

結果から言うと,学振PDには通らなかったのだが,申請書を書く際に色々と御指導頂いたことは今でも資産になっているし,今研究費が取れることの礎になっているはずである.

これとは別に宮下先生におよそ1年くらい従事したような形になったのだが,その際に宮下先生の学生の指導のやり方を垣間見ることができた(これはあくまで第三者視点の感想である).

研究に関する新しい情報や外部の研究者の紹介等色々と学生にとって刺激になるようなことを学生に楽しそうに(ここ重要)伝えていたと今でも記憶している.つまり,モチベーションを高めていくという手法を取っていたのであった.

学生がモチベーションを上げて,教員と学生で高めあっていくほうが研究室を繁栄させるということでは非常にいいのではないかと思い,私もその考え方を導入して,研究室運営を行っていたのである.

この時宮下先生にアポを取って色々と御願いしたことが,後に香川大で特別講義をしてもらうことにも繋がったりしたのだが,台風により授業ではなくセミナーという形に(ちなみに当然大盛況).

書類作業や学会発表をしていて,博士論文のための2本目の論文を6月に投稿して,7月に採択されて要件を満たして,あとは少し実験をすれば修了というところまで来たのだが,ここが意外と人生の分かれ目になる場所だったということが後年になって判明したのである.普通論文の採否はおおよそ4か月くらいで決まることを考えると,この時の論文の採択までの時間が異常に早かったのである(これはたまたまである).これがもしもメジャーリビジョンでずるずる伸びた場合や,リジェクトだった場合にどうなっていたか?と考えると少しぞっとする.確実に修了するためには,この論文をD2の終了時までに投稿するべきであったのだが...要件を満たすためにどのタイミングで論文投稿をすれば確実に間に合うのかはよく考えておくことをお勧めする.

7月を過ぎると,博士論文作成のための追加データ取得のために,ほぼ家に帰らなくなった.たしか,着替えをもって大学に行き,KMDの下にある学生向けのシャワーを浴びて,研究室で寝袋にくるまって寝て,数日に一回終電で帰ってという生活を繰り返していた.

あの頃,当時M2の学生のメンタリングをやっていたのか,やらされていたのかという形でほぼ一緒に生活していた.学校に寝泊まりして,一緒に食事をして,コンビニに買い物に行ってと.

こうやって書くと正直気持ち悪い気がしてきたが,そういう関係ではない.

起きている間はずっと研究,詰まったらディスカッション,早朝はデイリーヤマザキ,朝は喫煙所でミーティングという流れであった.喫煙所では副査の先生に「来年も頑張ろうね」と毎朝圧力をかけられるというおまけも付いていた.これはD3の学生には効く一言である.

朝先生がやってきて「調子はどうだ?」と聞かれ,それに対して「最低だ,もうや無理だ.早く自由にしてくれ.」と回答すれば,「まだ大丈夫だな!!」と言われるようなことも繰り返した.確かに失踪せずにPCに向かって論文書いていたらまだ大丈夫と判断するのは至極適切である.

当時を思い返してみると,大変な生活を送っていたが朝から晩まで研究のことだけを考えていたので,ある意味充実感はあった.研究室に寝泊まりをして特に同じ目標(修了)に向けて切磋琢磨するような日々は学生生活最後の年に一番学生らしい生活を送れていたのではないかと思う.

この時期の研究にだけオールインするという環境は非常によく,今でもあの時期に戻りたいと思うことは多々あるし,海外にサバティカルに行った先生からも研究に"ほぼ"オールインできて楽しかったという感想を聞かされている.そう聞かされると,やっぱり研究にオールインする機会がもう一度欲しくなるのだが...

博士論文の公聴会では色々と副査からズタズタにされ,苦しい中なんとか修了をすることができた.そして,3月末に晴れて自由の身となった.なんとか次の行き先も決まっていて,2016年4月から自分のお金でご飯が食べられるようになったのである.こんなに嬉しいことは無い.

そういえば,香川大の居室を整理していたら副査の先生から返却してもらった修正前の博士論文が出てきた.その中の澤田先生から返ってきた博士論文ぺらぺらとめくると付箋がいくつも貼られていてなんだったかなと思ったのだが,全て直しに関するものであった.そういえばちょうど3年前,その付箋を見ながら頑張って修正をしてたのであった.

その時に,博士論文の審査会の時に熱心に他の研究室の先生方にも指導して頂いたことを思い出し,辞職でもその先生方に恥じないよう頑張って教育と研究をやっていことうと再度気持ちを引き締めることができた.同時に,自分が博士課程の学生の副査や主査を担当する日には一体何を思ってどうするのだろうとも思案した.

本当はもう少し書きたいことがあったのだが,話をいくつかピックアップして時系列順に書かせて頂いた.ここに書いていることが書かれていなかったことに比べて重要ではないというではないということは記載しておく.どれも今の自分がなんとか生きている上で重要な経験であったはずである.

今回は中編はここまで.最終回になる後編では研究室立ち上げから解散までとその時の話を書こうと思う.あまり長くなりすぎないようにしたいが,さて...

(つづく)