何故石塚は研究室を解散させたのか(前編)

はじめに

2019年3月31日は色々な意味で忘れ難い日となった.

何故なら自分の名前の研究室を取り潰した(語弊があるかもしれないが)日だったからである.博士号取得後にラボを持って3年で取り潰したというのも中々豪快な行為だと思われるし,そういう選択は容易に取りうるものだろうか?香川大にいる元石塚研の学生3名には大変申し訳ないことをしたような気もするが,それもまた人生.最長で2年指導は続く(M2:1名,M1:1名,B4:1名).

3年前に研究室を持った時の状態は一言で言うと夢も希望も無い最低の状態であったと記憶している.学位取り立ててで何ができるという指摘も正しいと思うし,自分ならそう指摘してリジェクトするか手厚く援助するかのどちらかだろう.後で記すが2016年度末退職で東京に戻ることも視野に入れて,決死の覚悟で2016年度は生活していたのである.そんな中,協力してくれる先生方や頑張って研究をしていた学生がいた(いる)ので首が繋がって今に至る,それだけの話である.

自分の過去の経歴を振り返った上で,何故潰したのかを踏まえて今後どうしたらいいのかをまとめて,忘備録として残しておこうと思う.もしも,博士号取得後即自分の研究室を持つ人がいたら,何かの参考にして頂けたら幸いである.

私は修士と博士がおおよそ別な分野の研究で,博士号取得後にラボから完全に切り離されて0から始めるという極めて危険な道を選択している.基本的にはこういう選択はさけるべきである.今になって思うと博士課程の3年+香川大助教の3年の6年でだいぶ触覚関連のことが理解できてきた.このことから6年くらい同じ分野に携わるということは不可欠であり,学部-博士課程後期まで一貫して同じ分野でやるということが良いのでは?と思うよこともある.これは呑み込みの早さに依存するので一概にそうとは言い切れないが.

研究室を潰したとは書いたが,現在は縁あつて小講座制の研究室の助教として元気に生きており,学生の論文添削に付き合わされる毎日である.

ちなみに,前職は円満退職で各方面からの送別会や退職後の学生の対応もして頂いており非常にありがたく思っている.一応,今年度は香川大の非常勤講師という立場でもある(読んだ香川大の先生諸々宜しく御願い致します).

さて,私の自己紹介をすると

名前:石塚裕己(Twitter: ishizukaclass)

出身:新潟県

学位:博士(工学)

所属:大阪大学基礎工学研究科

職位:助教

研究分野:触覚関連,ソフトロボット関連

好きなもの:Black Lotus

簡単に経歴を書いておくとこんな感じ.詳しい自己紹介は割愛させて頂きたい.

学生には意外にいい人と言われているが,意外は余計である.試験や研究に対して厳しいのは仕事だからであって,それが全てだと混同することは間違っている.しかし,厳しいという側面が強調されて,他の部分はわかりにくかったというのはいい発見でもあった.

Twitterで見るような人々と比べると遥かに平凡であり,せいぜい自分のことでいいことが書けるならジャーナルが採択されましたくらいであろうか.ここは個人的な数年の課題だと強く感じている.

今回は,ただの経験談を書いて誰かの役に立てばいいなくらいの感覚である.書いていく途中であまりにも文章が長いことに気が付いたので分割して掲載することとした.前編は主に学部修士編,中編は博士課程編後編は教員編である.興味があるものを読んで頂ければ幸いである.見返してから気が付いたのだが,大体が自分の失敗談のような話となっている.

読者の想定としては,これから研究室に配属される学部生,研究室を移動することを検討しいている学部生or大学院生,博士号取得付近の大学院生であろうか.質問がある場合にはツイッターアカウントにリプライをして頂ければいくらでも回答する.役に立つかはわからないが.

自分の過去について語ることは多々あれど,系統的に整理したことは無い.今回はせっかくの機会なので自分の過去を時系列順に整理しておくことにした.何かの参考になれば幸いである.

明治大学理工学部機械情報工学科B4編

自分が研究室に配属された研究室は小山紀先生のメカトロニクス研究室であった.確か配属は2009年の夏だったので,もう10年前である.10年前と言えばテイルズオブヴェスペリアとかとある科学の超電磁砲とかそんな時代である.10年間に小学生だった学生はもう大学生.時の流れは速いものである.

小山先生には大変申し訳ないのであるが,サークルの先輩のアドバイスによってたまたま研究室に希望を出しただけであった.今になって思うと自分の求める学生像とは真逆のことをやっていたので,過去から現在に至るまでの心境の変化を時系列順に辿っていきたいものである.

当初は人工心臓の論文を輪講用に渡されてこういう研究をするのかと思ったものの,そんなこともなく.人工臓器の研究は動物実験の難しさもあって容易には行えないのである.

それ以降,医工連携は難しいのでやらないと心に決めたのであった.

代替案的に出てきた研究もやる気も無く,気が付けばそろそろ大学院入試.

忘れもしないB4の6月,先生の鶴の一声で東京工業大学の大岡山キャンパスの北川能研究室(現:塚越研究室)に研究の手技を学びに行くことになった.なんでもアシストスーツの改良に使うとか.

三重点における相変化を利用した携帯空圧源の開発

簡単に言うとドライアイスを密閉容器に詰めると0.42 MPaのガスが発生できるという研究である.

当時の自分からすると目から鱗のような話であった.密閉容器に詰めてはいけないと言われているドライアイスを密閉容器に詰めて有効活用するなんて,なんて頭がいいのだと.更にその際に指導してくれた東工大の院生の言葉が胸に刺さったのだ.名前は確か宮田さんであったはずである.

「研究は最高の暇つぶしだよ.他に面白いことがあったらこんなことはやらないさ.」

なるほどと思い,その日のうちに博士課程後期まで進学することを決めたのであった.

宮田さんはボルカヌスという制度で1年間ほどEU圏にインターンシップに行っていたということを思い出した.もしも,興味がある方は調べて参考にして頂きたい.

ちなみに,大学院で東工大すずかけ台に行こうと思ったのだが,TOEICの受験の締め切りが過ぎており,そのまま明治大学大学院の修士課程に自動的に進学することとなった.

ちょうど某大手家電メーカーに就職した女性の先輩がいて100人の博士のいる村の話をされたのだが,当時の自分は「なるほど,7割は生きているのか」と考えていた.先輩は呆れていた.

今となれば人の話は聞くものであると今でも後悔していることも無くもないが...

ちなみに先輩,近年ではどういうわけか洗濯機の説明書からOIOI内で使えるシステムの開発とマルチに活躍されている凄い人になったらしい.

研究も順調に進み卒業論文も提出し終わったところで,そろそろオリジナリティのある研究をしたいなと思い小山先生に研究テーマに関する助言をもらおうとしたところ

「それを考えるのは君の仕事だよ」

という言葉を頂いた.これは確かに今になって思うと,その通りである.せめて,〇〇〇ということをやりたいのだが,何かいい方法は無いのか等の具体的な案を持って行くべきであったような気もする.ねだるな,勝ち取れさすれば,与えられん,そういうことですね.

しかし,当時から猪突猛進な私はあろうことか物理的に解決することにしたのであった.

そう,アイディアが湧くまでアイディアを出し続けようとしたのであった.

今になって思うと非常に愚かな行為である.明治大学はElsevierもIEEEもアクセス権があった(少なくとも当時は)ので,もっと多くの文献を調べる等いくらでも攻め手はあったのだが,何故か考えるということだけを行っていた.非常に愚かである.

当時読んだ論文には岡山大学の則次先生の研究があり,まだお兄さんだった頃の佐々木大輔先生の写真を眺めることが多々あった.おじさんになった佐々木先生と同じ職場で働いて一緒に仕事をすることになるとは当時の自分には知る由も無かった.これはまた別な話である.

明治大学大学院理工学研究科機械工学専攻M1編

なんやかんやで卒業式は東日本大震災で流れて,気が付けばM1になっていた.春休みにやったことと言えば研究は進まず,先輩にMGディスティニーガンダムを作らされたことだけであった.

当時の機械情報工学科では進学時に研究室を変える人は稀であった.例にも漏れず私も,そのまま小山先生の指導を仰ぐこととした.

M1前半の思い出といえばスタードライバー輝きのタクトのBD発売記念イベントに参加したことであろうか.当時はまだ横浜ブリッツが存在していたのであった.「何が綺羅星だよバカバカしい」というヘッドのセリフは中々の名言である.

夏休みに入りインターンに行ってみたりと色々なことがあり,気が付けばもM1も半分終わり.ちなみにインターンに行くと推薦を出せば内定をあげるよと言われたこともあったが,やはり進学したかったので特に気にも留めていなかった.今となればインターン先に行くという選択肢もあったかもしれない.

この時,自分の研究に関する能力も大体把握できてきたのであった.

実績→×(恥ずかしながら今まで自分が指導した学生全員以下)

能力→×(特に秀でた事項無)

パッション→◎(頑張ります!!)

自分が指導教員だったら100%進学を勧めないであろう.もう少し頭を柔軟に使って,頭の良さに全振りした研究でやっていこうと思いさてどうしたものかと数か月.

当時,たまたまある先生の講演を聞くこととなった.確か細胞が云々という講演内容だったと思う.それが博士課程の指導教員の慶應義塾大学の三木則尚先生である.なるほどあたまいいねーって思うようなことを言っていたので,ここに進学するかと思いアポイントメントを取って面談をしてもらった.何故,三木先生が当時の私の琴線に触れたのかはわからない.

僕「細胞の分析をするようなマイクロ流体デバイスを作りたいです」

三木先生「ああ,お金あるから触覚の研究やってよ」

こんなやり取りをしたような記憶がある.当時はJSTさきがけという予算のおかげで研究室の資金が潤沢だったのである.後述するかはわからないが,ある意味私もJSTさきがけには支援して頂いたようなものである.

ちなみに,三木先生は神通力のような能力があるのか適当にうまくいったのかはわからないのが,この時の判断は適切であったと今でも思う.

面談をして,まずは学振DC1を書こうということになった.学振DC1とは優秀な修士課程から博士課程に行く学生を日本学術振興会の研究員として雇用して,月20万円の給与と年間100万円程度の研究費を支給するという制度である.採択率は3割以下となっている.機関毎に採択率は異なっており,東大からの採用者がダントツで多かったと記憶している.これは機関毎に採択数を決めいていると言う人もいれば,研究機関の水準の問題ではと言う人もいる.私は後者だと思っているし,それは悪いことではない.要は蓄積された知識である.

通る申請書を書くように心がけるか上手くシステムに組み込まれることくらいしか解決策はない.もしも通る申請書を書きたいなら,とにかくたくさんの人に読んでもらうのがいいだろう.とはいえ,自分の経験から研究テーマの時点で差はついているので,そこをどう挽回できるかについては私も知りたいところである.

超大御所の先生でも三振を公言している人がいる.学振DCでは将来性は測れないということか.成長の仕方は早熟,大器晩成,人それぞれ.

近年,三木先生の中では学振DCを取ったことになっていたが,私はDC2の2回目を出す前に心が折れた.

取れなかった側からのアドバイスをすると,取れないことを悔やむよりもどうすれば取れるようになるのかを考えるほうが建設的であるとエールを送りたい.取れなくてもアカデミックに残っている人もいるし,取れてもアカデミックを去った人もいる.大事なのは負けの経験も含めてどう生きるかではないか.

私はフォローもするが落とすこともするので,国際学会にいる日本人の博士課程の学生は大体日本学術振興会特別研究員であったとも付け加えておく.

ちなみに,どう申請書を書いたかは割愛するが,あの申請書を今の私が評価するならば,すべて1点にするだろうとだけ述べておく.

学振DCについては詳しく述べているサイトがあるはずなのでそちらを参照頂くのが良いだろう.私が伝えられるのは失敗談だけである.

明治大学大学院理工学研究科機械工学専攻M2編

学振DCの提出が5月末,そろそろ修士論文に向けて研究をするかと考えるも諸々の事情で新しく研究テーマを設定することとなった.当時,整磁合金と呼ばれる温度によって磁気特性の変化する金属を用いて,光による熱制御で駆動するアクチュエータを作ることとした.ちなみにプロトタイプは6月前に完成しており,その時点で欠陥がわかっていた.

そう,応答速度が著しく遅いのだ.

これはかなり致命的な欠点であったのだが,当時の自分は何故か嬉々としてこのアクチュエータを頑張って作り,何とか修士論文は間に合わせることができた.

当時を振り返ると,プロトタイプの時点で怪しいと思うものを開発し続けて一応結果を出すことと投稿論文になるような内容を追及することのどちらを取るべきかという判断ができていなかったと思う.結果論であるが,後者を取るべきであったと反省している.

失敗をした経験はあるが,損切をするという感覚を勉強できてそれはいい経験であったと思っている.しかし,損切をする経験は無い方が望ましい.

まったく話は変わるが,今のライティングスキルであれば整磁合金を使ったアクチュエータを投稿論文としてアクセプトさせられる自信はある.要は書き方,ライティングスキルであるが,それは本投稿の範疇ではないので割愛したいし,まだ人に話せるほどライティングスキルが高くも無い.

慶應義塾大学の博士課程後期の入試は1月中旬で,明治大学の修士論文の提出は1月末.修士論文のスケジュールが炎上したことも記しておきたい.1月2月に行われる博士課程後期の入試を受ける人はスケジュールをよく見ておくことをお勧めする.

修士までの内容でおおよそA4が3枚分の分量となってしまったため,ここまでを前編として,慶應義塾大学大学院での博士課程後期での生活は中編にて書き記したい.

小山先生には在学中には謎かけのようなことを言われて色々と考えさせられることがあった.小山研では研究に関する心構えのようなものを養成することができた.小山先生が自由に活動させてくれたことに関しては,今でも感謝しきれない.

ちなみに明治大学編では後に共同研究をする明治大学の宮下芳明先生に関する話題は一切出てこない.関わりが無くもないが,話すようになったのはもう少し後のことである.

え?宮下先生,理工学部から異動したんですか!?(2013年度初頭)

(つづく)