見出し画像

ISHIYA私観ジャパニーズ・ハードコア30年史外伝〜「失った右手が掴んだもの」マサミ伝〜#11 パンクとの接点

「#11 パンクとの接点」

  1981年という日本にハ—ドコアパンクが出現した年であるが、東京のハードコアパンクバンドに多大なる影響を与えたBODIESの解散後、同じく日本のハードコアパンクの魁と言えるバンドであるチフスの解散があった。
 チフスは当時、ザ・スターリンと活動をともにすることが多く、ザ・スターリン、チフスとBODIES周辺とでは、相容れない雰囲気のようなものがあったという。
 ザ・スターリンのミチロウ主催によって新宿トラッシュで企画され、8日間に渡って行われた「無差別ギグ」では、BODIEとしてその名を連ねていたが、当時ザ・スターリン関係と様々な軋轢があったのも事実のようだ。
 取材をしている中で、ザ・スターリンは当時のアンダーグラウンドシーンのバンド側には快く思っていない人間も多く、逆を返せば当時かなり目立った存在であったと言えるだろう。
 実際同時期に活動していたバンド側の人間とは違い、観客として観に行っていた人間たちは、ザ・スターリンもBODIESも観に行き、のちのハードコアパンクの観客たちも、ハードコアパンクのGIGとザ・スターリンのライブ両方に行っていた人間が数多く存在した。
 ザ・スターリンの存在はパンクスにとって大きなものであったが、目立つ存在であればあるほど標的にされるのも、仕方のないことだと言えるだろう。
 しかし話題になれば観に行く人間がいるのも自然なことだ。ザ・スターリンを観に行く人間の中が多くなる中で、マサミとヒロシもザ・スターリンを観に行くこととなる。
 そのライブが1981年7月20日に渋谷屋根裏で行われた、チフス解散ライブの「法定伝染GIGフルボリュームVOLUME 5」だった。

ここから先は

4,122字
この記事のみ ¥ 300

30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!