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ISHIYA私観ジャパニーズ・ハードコア30年史外伝〜「失った右手が掴んだもの」マサミ伝〜#10 東京ハードコアパンクの礎

「#10 東京ハードコアパンクの礎」

 マサミがトラッシュ連と呼ばれ、ライブハウスシーンに関わる前に、当時のアンダーグラウンドライブハウスシーンについて書いておかなければならないだろう。
 マサミがトラッシュでバンドや音楽に触れ始めた1981年という年は、日本のハードコアパンクの世界においてこれほどまでに重要な年はない。
 81年11月1日にGAUZE主催の消毒GIG第1回目が新宿キモノマイハウスで行われる。おそらく東京において最初のハードコアパンクとして銘打たれたGIGは、この消毒GIG第1回目になるのではないだろうか。同時にGAUZEがこの日デビューとなる。
 そして81年の9月ごろから行われていた新宿JAM STUDIOでのシリーズGIG「エモーショナルマーケット」が12月25日に行われるのだが、この81年に行われ2つのGIGが、東京でのハードコアパンクとしての始まりだろうと思う。

 1981年に産声をあげた日本のハードコアパンクであるが、80年に1stを含む3枚のシングル、81年に12インチアルバム「WHY」を発表したイギリスのDISCHARGEの多大なる影響によってこのムーヴメントが起きたと言っても過言ではない。中でも81年に発売されたアルバム「WHY」によって、日本のハードコアパンクが出現したと言ってもいいだろう。
 しかしDISCHARGEの影響はあくまでもサウンド面であり、精神的な部分においてはDISCHARGEやCRASSの反戦・反核思想の影響もあったが、個人的には世界と一線を画した日本特有のものがあったと思っている。そして今回取材を進めるうちに、日本のハードコアパンクに大きな影響を与えた非常に重要なバンドがあった。BODIESである。

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30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!