マガジンのカバー画像

混沌のランドマーク

15
このコラムは、以前インディーズインフォというWEBサイトで連載されていた「混沌のランドマーク」というもので、サイトがなくなってしまったためにコラムも読めなくなってしまった。 結構…
運営しているクリエイター

#混沌のランドマーク

PUNKとは何か?

海外雑誌などのインタビューを受けることがたまにあるのだが、海外では日本のパンクシーンが不思議に見える部分もあるようだ。 以前聞かれたのは、主に上下関係についてのことで「何故日本のパンクスたちには上下関係のようなものが存在するのか。パンクとはそういった一般的常識を覆すものではないのか」というような内容の質問があった。 確かに俺の拙い英語力で考えると、まず英語には敬語というものが無いように思う。たぶんだけど。名前を呼ぶにしても「◯◯さん」などと呼ぶなら、いちいちMr.と付ける

先人が伝えてくれたカケラ

「ゆるされ愛され からだを丸め 眠る安らぎ アブサントリップ」 日本のハードコアパンクバンドで1番古くから現存するバンドGAUZE。 そのGAUZEの歌詞の中で1番好きなものはこれだ。 もうレコードもどこかへ行ってしまったし、ほかの曲ももちろんおぼえている。が、個人的にGAUZEと言えばこの歌詞なんだ。 勝手に心に焼き付いているものはどうしようもない。それが全てだ。 俺が初めてGAUZEを観たのは、昔渋谷センター街にあった屋根裏だった。 いつだったかなんておぼえて

友よ

昔から仲間と揉めることはよくある。 DEATH SIDEの解散の原因も、CHELSEAとの仲違いからで、その後CHELSEAの彼女に不幸があったときまで口もきかなかったぐらいだ。 さぞやまわりは俺に対して腹を立てていたんじゃないだろうか。今考えてみると、俺の理由は非常にガキ臭いことで、完全に俺がおかしかったんだが、そんなまわりの人間たちの思いもよそに、頑に俺はCHELSEAを嫌っていた。 CHELSEAの彼女が事故により亡くなったときに、新潟のBLOW BACKが東京に

人は見た目で判断しろ

俺が初めてモヒカンにしたのは、まだ高校に行き始めて半年ぐらい経った16歳の頃だった。 それまでの中学生時代は、校則で「男子は全員坊主頭」という決まりがあり、髪型には様々な憧れがあった。 中学生でPUNKと出会い、スパイキーヘアーやモヒカンを雑誌などでは見ていたが、実際にモヒカンを見たことは無かった。 1970年代後半から80年代初期にPUNKと出会うまでは、日本でモヒカンにしているのは暴走族ぐらいしかいなかったと思う。 初めてモヒカンを実際に見たのは、中学生の頃に原宿

BURNING SPIRITS

DEATH SIDEをやっていた1980年代後半、鉄アレイと一緒に企画ライブをやり始めた。 当時鉄アレイのベースだったKATSUTAと俺が中心となってやり始めた企画が「BURNING SPIRITS」だ。 今では海外で「BURNING SPIRITS HARD CORE」というひとつのカテゴリーっぽくもなっている。日本で「ジャパコア」と呼ばれるバンドのことをそう呼ぶのか?どんなバンドを「BURNING SPIRITS HARD CORE」と呼ぶのかは、俺にはよくわからない

無礼な男の礼儀

バンドをやっている人間は、自分がライブをやる前に様々な方法で集中力やテンション、モチベーションを上げる。 何日も前から色々考えてその日に備える人もいれば、その日の感覚を大切にしてステージに持ち込む人もいる。 ツアーなどに出た場合などの身体が疲れきっているときや、仕事後にライブがあるときなどは、モチベーションを上げたり、スイッチを切り替える方法も人によって様々なやり方があるだろう。 ひたすら楽屋で集中力を高める人もいれば、楽器の場合、曲のチェックなどをしながら本番を待つ人

ツアーのススメ〜海外編

前回のコラム「ツアーのススメ〜日本編」で書いたように、俺は約20年ほど日本国内をツアーし続けてきたが、遂に海外でのツアーを行うときがやってきた。 初めて行った海外ツアーは、2006年のアメリカツアーだった。 今考えると、全く誰も知り合いがいない国で、ツアーを取ってくれたのもカナダのレーベル。サポートバンドもなしでのFORWARDだけでアメリカのほぼ全域を、一ヶ月ほどかけてツアーしてきたのは無謀だったのかもしれない。 各土地土地で、やる場所と何ヶ所かだけ運転手をしてくれる

ツアーのススメ〜日本編

16〜17歳頃からバンドをやり始め、初めて東京以外の街に行ったのは大阪だった。 西成の近くにあったエッグプラントという素晴らしいライブハウスがあって、そこにOUTOが呼んでくれた。 メンバーみんなで車に乗って大阪まで初めて行ったときはワクワクと緊張と、色々なものが混ざり合って全く眠れなかったのを憶えている。 そのときは単発だったが、ツアーというものに初めて行ったのはバンドではなく、他のバンドのツアーに勝手について行ったものだった。 1980年代後半にSELFISHレコ

変化

友人がやっていたBASTARDというHARD CORE PUNKバンドに「NEVER CHANGE」という名曲がある。変わってしまうことを皮肉り、変わらないことの素晴らしさを歌っている大好きな曲だ。 地元にいた高校生のころに、何だかよくわからないが色んなことが気に入らなかった。まわりの人間とも全くソリが合わず、本当の友人と呼べる人間は2人ぐらいしかいなかった。 そんなときに音楽、PUNKやROCKと出会い俺の人生は劇的に変わった。 高校に通い出してから、PUNKにガッツ

人生を決定する音楽

俺が「PUNK」という音楽に出会ったのは、小学校も終わるぐらいのときに、地元のとなりにある街に住んでいた先輩がバンドでデビューすると言う話を聞き、地元のちょっとでも悪いやつらの間では、聴かなければいけないような雰囲気になっていたバンドがあった。それがANARACHYというバンドだ。 直接は知らない先輩だったが、中学に入ると地元の先輩や不良達はこぞってANARACHYを聴き始めた。世の中は横浜銀蝿一色だったが、ウチの地元だけはANARACHYの方が断然人気があった。 ANA

ライブハウスへの招待

 俺がガキの頃とは変わって、今は音楽もスマホひとつあれば聴ける時代になってきている。しかしネットで配信されているものだけが音楽じゃない。ホームページが無かったり、TwitterやFacebookページが無くても、世界で認められている素晴らしいバンドはたくさんいる。そういうバンド達は、レコードやCDのリリースと「ライブハウス」での活動が中心で、海外ツアーや国内ツアーも数多く行っている場合が多い。 そして、そういったバンドは「ハードコアパンク」と言われている音楽活動をしているバ