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[読書ログ]「あるきだした小さな木」

例え読書ログであっても、毎日何かしら文章を書く習慣をつける。それが自分のリズムをつくる練習にもなると言い聞かせて今日も書きます。

創作していると、これでいいのかな、これで面白いのかな、と疑心暗鬼になって、それを何度もなんども自分自身で慰めて、鼓舞していく。
この繰り返しが、自分にとっての創作活動なんだと思う。
自信のない自分を、自分自身で肯定していく作業と言い換えれば、自分にとってはこれ以上ないくらい大事な作業。

だからきっと創作はやめられないのだと思う。


さて今日は1冊。サクッと書くと言いながらいつも長くなるので今回もきっとそれなりに長い。
ネタバレあります。

あるきだした小さな木

作: テルマ・ボルクマン 
絵: シルビー・セリグ 
訳: はなわ かんじ


あらすじ

小さな木は人間と一緒に暮らしたいと思い、森からぬけだして歩き始めました。さまざまな人間に出会って成長する小さな木の物語。(絵本ナビより)

感想

ちびっこの木が人間の男の子と暮らしたいと考えて、仲良しのすずめに打ち明けるシーン。ここが、この物語で一番重要なシーンだと思う。

「だって、どうやるのさ? 木ってものは、ねっこではえてるんだろ?
木はあるけないじゃないか」

でもほんとうに木はあるけないかしら。

それはいままで、ためしにあるこうとした木が、一本もなかったからです。
ほんとうにいっしょうけんめいにあるこうとおもった木が、
一本もなかったからです。

それからまいばんのように、ちびっこの木は、じめんからぬけでようと、ものすごくからだをゆすりました。
「この子は、いらいらしてるんですよ」と、ママの木は、こまったようにいいました。

とうとうある月のきれいなよる、からだじゅうをものすごくゆすりますと、ほら、ちびっこの木は、じめんからねけだしたではありませんか。
ちびっこの木は、百本もねっこがあって、はらっぱの上だってはしれます。

本文より引用

あとがきにもあるが、「一番重要な問題は、「自由」の問題」だとある。
わたしもこれは自由の物語なのだと思う。

親から離れて自由を求める姿勢や、後ろを振り返らないエネルギーがこの物語からは感じられる。
そうして訳者も、この自由と独立は、愛情あってこそなしえると書いている。

この自由、独立、愛情の三つを求め、その意味をかんがえ、自分のものとすることが、成長することなのです。作者の言いたいことは、そこにあると思います。

あとがきより引用


愛情というのは、以下の冒頭で父親と母親とのふれあいのシーンからも感じられる。
その安心感(愛情)が下地にあることがわかるから、ちびっこの木は、猪突猛進できるわけだし、読者もそれを応援したくなるのだと思う。

この前提があるかないかは大きい。
そうして、海外の絵本や児童書のほうが、この親子の愛情表現は多く描かれているように感じる。

ふかいふかい森のなかに、お日さまがきらきらひかる、小さなはらっぱがありました。そこにちびっこの木が一本はえていました。
せいの高さは、パパの木、ママの木のはんぶんくらいしかありません。
かおをあげてみると、パパの木、ママの木は、空のなかでこずえをゆらゆらゆらしています。
「パパ、パパはお日さまにとどくほどせいが高いの?」
と、ちびっこの木はたずねました。
ちびっこの木はとてもしあわせでした。
パパとママのすぐそばにはえているなんて、とてもいいでしょ!

本文冒頭より引用

最後に、レビューをみていて思ったこと。
5歳のこどもが、ちびっこの木が大きくなって、木として根をおろして定住を決めたことで、もうパパとママとは会えないのか、パパとママは歩けないのか?ということを寂しく思ったようだというコメントがあった。

個人的に、これは自分で本が読めるようになってから読むほうが味わい深いし、先に書いた通り、自由と独立と愛情の話だと思うので、自他分離の途中であり、自他未分化の状態である就学前の子どもには対象年齢が合わないかなと思うけれど、確かに戻れないということは寂しいことでもある、と思う。

そう思うと、最後に、大人の木になっても、その気になってがんばれば、また歩いて会いに行ける、ということは書いてもいいのかもしれない、
と思ったが、やっぱり蛇足だろう。

自分で見つけた新しい地に根をおろすことの重要性と、”独立”への意識が、日本と海外では少し違うのかもしれない。

勉強のためにも、練習として、この日本版になるような、オマージュ作品を書いてみようと思う。


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