情況についての発言(9)――刑部親王ならぬ刑部省の役人、『Rolling Stone Japan』刑部芳則氏登場web記事等々

 

 わたしは手廻し蓄音機にそれらの軍歌を、繰り返し繰り返しかけてその歌詞を暗誦した。『軍神橘中佐』『広瀬中佐』『水師営の会見』『勇敢なる水兵』『ブレドウ旅団の襲撃』『ポーランド悲歌』『大山巌の歌』『肉弾三勇士』『アッツ島守備隊顕彰歌』など、物語性の強いものを愛好した。物語であり、講談である以上、歌詞をおぼえなければ話にならない。そしてその歌詞は、長ければ長いほどよかった。長ければ長いほどよい歌詞を、はじめから最後まで歌うのがよいわけだ。その意味で最大の軍歌は何といっても『軍神橘中佐』だろう。遼陽城頭夜は闌けて、からはじまるこの死闘の物語は、上、下二篇に分れている。上が十九番、下が十三番である。
 またわたしは、『討匪行』『ああ我が戦友』などの物悲しい軍歌も好きだった。『婦人従軍歌』の女性合唱の部分、『愛国の花』を独唱する女性の声にも聞き惚れたようだ。

(後藤明生『挾み撃ち』、講談社文芸文庫、1998年(初出は河出書房新社、1973年)、太字――石岡)

  今回の内容は、だいぶ後になってから書く予定であったが、諸事情によりだいぶ予定を早めて書くことになった。
 ここ近年、私は目標の一つとして「歴史学をぶっ壊す」ことを掲げている。私はかつて歴史学専攻の学生だった。この10年ほど、やはりとりわけ日本史研究界隈は相変わらずなままである。近代歴史学(実証主義)が中心のままで、そこからの発展がない。それどころか、それ以前の段階にすら退行しているような有様である。私は歴史学専攻の学生だった10年前当時から、実証主義者を称する日本史研究者の間で世代的に歴史認識の違いがあるように思えてならなかった。中堅、若手のなかでも信用の置ける人物はいるにはいるが、それはあくまで一部であるように思えてならない。ここ近年は中堅、若手の実証主義者を称する日本史研究者が公に歴史修正主義的言説を披瀝する出来事が相次いでいるのだから。
 例えば、今年3月10日にBSテレ東で放送された『作曲家・服部良一と笠置シヅ子~のり子・はま子…女王たちの時代~』と今年3月15日に配信された『Rolling Stone Japan』のweb記事「刑部芳則が語る、J-POPの元祖・服部良一が戦時中に作った楽曲の幅広さと抵抗」に登場した日本近代史研究者(華族、制服)の刑部芳則氏の発言内容は本当にみっともなかった。
 『Rolling Stone Japan』のほうは、FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」のマスターに扮した音楽評論家の田家秀樹氏が刑部氏をゲスト(昨年12月)として迎えたのをweb記事化したものだが、そこで刑部氏は、「一般的には総称としてみんな軍歌と呼んでいた」としつつ、「軍歌」と「戦時歌謡」は違うと言い、それぞれに定義を設けている。
 何々部隊の歌等々、軍のために作られた楽曲を「軍歌」とする一方、戦時中に突入して、歌詞の内容が戦地だとか、国民をつなぐような戦争をテーマにしたようなドラマチックな曲調になってくる楽曲を戦時中の歌謡曲ということで「戦時歌謡」と刑部氏は定義している。加えて刑部氏は、「校歌とか社歌とか自治体歌を歌謡曲とは言わないじゃないですか」と言っているが、要するにそこの違いは大きいと言いたいのだろう。
 更に刑部氏は、「当時のレコード・レーベルを見ても、非常にバラバラ」と言い、「軍歌と書いてあるものはほとんどなくて、単なる流行歌と書かれているものや、愛国流行歌とか、時局歌とかバラバラ」と言っている。「軍歌」として宣伝された楽曲がほとんどなかったかどうかはここでは脇に置くとして、一般的に総称として「軍歌」と呼ばれていたことや「流行歌」とか「愛国流行歌」とか「時局歌」とかジャンルがバラバラだったことを否定するつもりはない。
 音楽史の研究実績がほとんどないなか刊行された『古関裕而――流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年)以来、刑部氏は「戦時歌謡」という用語を積極的に用いている。その翌年に刑部氏は、NHKの連続テレビ小説『エール』の風俗考証を担当していた。『エール』放送当時、刑部氏と同時期に古関裕而の評伝を刊行した辻田真佐憲氏から「戦時歌謡は事実上、戦後の造語」(『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』、文春新書、2020年や辻田氏署名のweb記事)という指摘がなされた。この指摘は、不思議なことに刑部氏にではなく、NHKにのみ向けられたものである。だが、「戦時歌謡」についてNHKは刑部氏による古関の評伝を参考にしたことを認めている(フリーライターの木俣冬氏署名のweb記事「NHKの朝ドラは戦争をどう描いてきたか~『エール』では音楽と戦争の関わりを過去の作品では?」)。また辻田氏は、「戦時歌謡は事実上、戦後の造語」であることから、音楽史の研究では「戦時歌謡」という用語はもうほとんど使われておらず、「戦時歌謡」という用語を積極的に使うべきではないとも言っている(辻田氏署名のweb記事「〈朝ドラ「エール」と史実〉「軍歌」はやはり“タブー”か。古関裕而の曲を「戦時歌謡」とごまかす問題点」)。
 辻田氏の主張内容が正しいのであれば、「戦時歌謡」という用語を積極的に使っているのは刑部氏ぐらいということになる。古関の評伝においても、『エール』放送当時においても、刑部氏は「戦時歌謡」について一切説明しなかった。古関の評伝の刊行から5年も経った今になって説明を始めた訳である。その間に刑部氏は、落語家の林家たけ平氏とYouTubeチャンネルまでも開設した(「刑部たけ平の昭和の歌声」2023年1月20日- )。『Rolling Stone Japan』のweb記事は、「戦時歌謡は事実上、戦後の造語」といった声に反論する形にすらなっていない。『エール』放送の翌年に刊行された『セーラー服の誕生 女子校制服の近代史』(法政大学出版局、2021年)において刑部氏は、「実証」や「事実」なる言葉を過剰に書き立て、実証的ではない書籍が登場したり、「セーラー服邪馬台国論争」(刑部氏による造語)といった不毛な議論が起こったり、「そうした書籍や報道記事を読むたびに、学校制服史を冒涜していると憤りを感じた」と書いている。ならば、尚更「戦時歌謡は事実上、戦後の造語」といった声に反論すべきである。歴史叙述に「物語」をと大きなお世話のように語る辻田氏から「戦時歌謡は事実上、戦後の造語」といった声が公になされた。本当にみっともなかった。
 私はかねてより旧Twitter上で刑部氏を批判してきた。強い表現を用いることもあった。とてもではないが私は刑部氏を信用できない。なぜ私がここまで言うのかわからない方も多いかも知れない。ここに少し書く。
 別のところで、史学科の時の指導教員と私は互いに足を踏みつけながら笑顔で握手するような関係だったと書いたが、考え方が合わなかったのに加え、決定的なことに刑部氏が関係している。
 日本近代史研究者(明治維新、地租改正)の奥田晴樹氏は立正大学文学部史学科教授在任中の2013年に刑部氏を非常勤講師として連れてきた。私は史学科の学生3年目だった。教室で大勢の学生を前に奥田氏は、「講談社選書メチエから単著を一冊(『洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新』、2010年)出している気鋭の若手日本史研究者」、「お忙しいなか刑部さんにお願いした」と刑部氏を紹介していた。当時、私は刑部氏のことをまったく知らなかったが、すでに日本大学商学部准教授であったと後から聞いた。
 奥田氏が退出すると、刑部氏は自己紹介を始めた。「刑部親王の刑部です」と言っていた。一見誠実そうに思えたが、急に態度を豹変させた。学生のほうから何かした訳でもないにもかかわらず、あれこれとまるで恫喝するかのように一方的に要求を突きつけ、少しでもできなかった場合でも、「出て行け」と大声で怒鳴り散らしていた。学生に対して、刑部氏は終始高圧的な態度を取り続けていた。話の内容も下らなく信用の置けないものだったので私は初回のガイダンスに出席したのみで即刻履修を取り消した。このような対応を取ったのは私だけではないと思う。私を含め教室にいた学生の8割か9割は刑部氏の講義の履修を取り消していた。刑部氏の講義を履修した学生からその後の様子を聞いてみたが、学生に過度な負担を強いるようなものだった。嫌がらせに近いような内容だった。
 奥田氏は事情を後から知った。急に「私が何とか言っておく」と学生に向けて慌てながら話していたが、とんだ茶番劇だった。奥田氏はその後も刑部氏の研究上の実績の称賛を繰り返していた。その度に教室には不穏な空気が流れた。それでも奥田氏はお構いなしだった。
 こんなこともあった。大学構内の喫煙所で一服していたら、同じゼミの優秀な学生がやって来た。刑部氏の講義の単位を落としたらしい。「誰かぶん殴りたい気分だ」と笑顔で私に言ってきた。しばらく間を置いてから私は、「刑部」と返した。「いいねえ」と陽気に即答された。実際には殴り込みも焼き打ちもしなかったが。
 その数年後に刑部氏は、『帝国日本の大礼服 国家権威の表象』(法政大学出版局、2016年)を刊行した。なぜ法政大学出版局からなのかと思ったが、その「あとがき」によれば、担当編集者の奥田のぞみ氏が直筆の執筆依頼を送ってまで刑部氏を迎え入れたらしい。刊行からすぐに私はとある図書館でそれを発見し、その「あとがき」を最初から最後まで読んだが、そのままぶん投げたくなった。そこにはこうある。 

 実際、筆者のところには歴史研究の相談に乗ってほしいといって学生が何人も訪ねてくる。話を聞いてみると、私は面白い研究課題だと思うのだが、周囲の同輩や先輩からは理解を得られないようだ。そう悩む人に筆者は、私のやっていることは「歴史学」ではなく「歴史楽」だと説明する。続けて「歴史は楽しんで研究するものである。あなたが調べていて楽しいのなら、周りの雑音など気にする必要はない」と言葉をかける。この本が、直接声をかけられない後輩のみなさんにとって、「こんな材料でも歴史になるのだ」と励みになれば幸いである。

(『帝国日本の大礼服 国家権威の表象』)

 「お前が言うな」としか思えなかった。
 自分はこれだけ学生に慕われているとアピールするかのような内容である。寝ぼけているかすっとぼけているかのいずれかである。実際の行動と書いている内容がこれだけ乖離している人物を初めて見た気がした。刑部氏は自分のやっていることの区別すらもつかないのだろう。本来の勤務先(日本大学)でも同様のことがいまだに繰り返されていると噂レベルでも聞く。刑部氏は制服のほうもメディアを利用して積極的に売り込んでいる。刑部氏と同じ門下出身(中央大学)の宮間純一氏は、国葬の研究書(『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』、勉誠出版、2015年)を書きながら、「民主主義と相容れない」と盛んにメディアで語っていた(刑部氏と同時期に宮間氏も非常勤講師として来ていた)。刑部氏は宮間氏とは正反対のことをやっている。事情を知る学生は刑部氏の宣伝活動に果たして納得するのだろうか?
 二言書いておく。
 履修取り消し可能だからといって何やっても許される訳ではない。
 学生は自己満足のための玩具ではない。
 ついでに言っておけば、刑部氏は、テレビ番組で大日本帝国の植民地政策を平然と正当化したり(BSテレ東『武田鉄矢の昭和は輝いていた』)、『月刊WiLL』2022年4月号の「フェミニズムに告ぐ!」なる馬鹿気た対談企画に『セーラー服の誕生』を引っ提げて登場し大放言を繰り返していた。私は、「やっぱり出てきた」としか思わなかった。いずれも刑部氏の本音が出ていると思った。これでも日本史研究界隈から刑部氏に批判的な声は一切なかった。どうかしている。刑部氏のいつもの歴史修正主義臭漂うナルシシズム満載の駄文を称賛するのはどうかしている。学生にあれだけ刑部氏を売り込んでいた奥田晴樹氏は、在野時代に立ち上げた研究会(京浜歴史科学研究会)の会報においてもいまだに刑部氏の著書の書評すら書くこともない。
 奥田氏は2019年に立正大学を退職した(現在は名誉教授)。理由は体調不良と聞いている。同じ年に退職した教員がもう一人いる。日本中世史研究者の村井章介氏である(理由は定年)。東京大学での定年が近かった村井氏は2013年に移ってきた。立正大学のほうでも定年退職する教員がいたからである。村井氏は東大教授時代に呉座勇一氏の指導教員だったと言われている。呉座氏を巡って騒動があった際に村井氏は公に何もコメントしなかった。ダメだろ村井さん。
 最後に辻田氏にも一言。
 五反田で某大物批評家と戯れている場合ではない。

ここから先は

0字

¥ 250

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?