【書評】カミュ『異邦人』
本書は、「不条理」を主題としたアルジェリア(当時はフランスの植民地)生まれの文学者アルベール・カミュ(1913-60)を一躍文壇の寵児にした小説である。彼は、ジャン=ポール・サルトル(1905-80)と同時代人であり、注目を浴びた時期(カミュの『異邦人』は1942年、サルトルの小説『嘔吐』は1938年)が重なったこともあって、両者共に実存主義者であるかのように扱われた。だが、カミュは自身が実存主義者であることを否定し、マルクス主義に傾倒しソ連を支持するに至ったサルトルともやがて決別することになる(サルトルは後にソ連への批判を表明し、1968年の五月革命頃にはマオイズムの学生運動を支持するようになる)。
その後のカミュは、1957年に44歳という若さでノーベル文学賞を受賞し、1960年に交通事故により急死する。簡単に人物紹介をしたところで作品の内容に入ることにする。「きょう、ママンが死んだ。」という訳文(窪田啓作訳)で始まる本書は二部構成となっている。養老院に預けた母親の死の電報を主人公ムルソーが受け取る場面から始まる第一部は至ってありふれた日常の出来事ばかりが描かれている。ムルソーの性格もいたって近代的で凡庸なものである。母親の葬儀の翌日に海水浴に行き、そこでかつての職場の同僚の女性と再会しようが、その女性を愛していないにもかかわらず相手が望むのであれば結婚するのも構わないと言おうが、凡庸に変わりない。むしろ、ムルソーの周辺の人物達、例えば、皮膚病の飼い犬を「畜生、くたばり損い奴」と頻繁に罵る隣人であるサラマノ老人や同じく隣人で女衒のように思われる倉庫係を職業とするレエモンのほうがより個性が際立つ。
そんなレエモンはとある問題を抱えている。それがムルソーにとって悲劇の始まりとなる。レエモンはモール人(ベルベール、アラブ、黒人の混血)の情婦との金銭トラブルを抱えており、その処理の協力をムルソーに依頼する。手紙の文句を書く程度のことであるが、沈黙の後、ムルソーは了承する。後日、ムルソーがマリイ(先述の元同僚の女性)を自分の部屋に呼び寄せている時に、レエモンが自分の部屋で例の情婦との警察沙汰の騒動を起こすことになる。その際、ムルソーが証人となり、レエモンが罪を問われることはなかった。だがこの一件以来、レエモンは情婦の兄を含むアラビア人の一団に目を付けられるようになる。
ある日、ムルソーはレエモンに誘われて、アルジェ近くのちょっとしたヴィラに行くことになった。レエモンが、彼の友人の一人に誘われたからだという。ムルソーは、その日にマリイと会う予定であったが、レエモンの提案で彼女も一緒に行くことになった。当日、ムルソーとマリイとレエモンが出発しようとすると、レエモンに目を付ける例のアラビア人の一団が見張っている。何とかばれないように三人は出発し、バスに乗り込む。難なく浜にあるヴィラに到着した三人は、レエモンの友人のマソンとその妻と会い、全員で昼食を取ったり、海を泳いだりして過ごす。
日射しのきつい真昼間に、ムルソーとレエモンとマソンが浜にいるところに、どうやって辿り着いたのか、例のアラビア人の一団のうちの二人がやって来る。二人のうち一人が匕首を持っており、それでレエモンを切りつける。第一部の終盤で物語は緊張を帯びてくる。双方とも好機を窺った後、アラビア人の二人は逃げ出す。レエモンは医者に見て貰うことになる。腕に包帯を巻いて戻って来たレエモンは不機嫌なまま、風に当たりたいと言い再び浜へ降りる。マソンの忠告を聞き流したムルソーも後に続く。しばらく二人で浜を歩いていると、再び例のアラビア人の二人に出くわす。レエモンは不機嫌のあまり、ピストルで二人を撃とうと思いつくが、ムルソーは正当防衛に用いるように促す。レエモンの様子に危機感を持ったのか、ムルソーは先の忠告を訂正し、レエモンからピストルを取り上げる。しばらくの沈黙の後、再びアラビア人の二人が逃げ出すと、ムルソーとレエモンはヴィラに戻る。
ムルソーとレエモンの二人はヴィラに辿り着いたが、太陽からの熱の影響からか、ムルソーは理性を失い、一人で浜を歩くことになる。この行動を理解に苦しむと思う読者も多いと思われるが、レエモンから取り上げたピストルを持参したままである。日射しは依然きつく、ムルソーに襲いかかる。やがて匕首を持った例のアラビア人と出くわす。相手は一人であったが、太陽の光はムルソーを襲い続け、汗が瞼に垂れ、ムルソーの行動に影響をもたらす。匕首からの光の反射も重なり、やがて構えたピストルの引き金を思わず引いてしまう。これは偶然である。汗と太陽を振り払い、動かなくなった相手の身体に今度は四発。そこで第一部が終わる。
第二部は、ムルソーが予審判事の尋問を受ける場面から始まる。言うまでもなく、ムルソーは殺人の容疑で逮捕された。翌日には、弁護士が面会に来た。予審判事も弁護士も、質問に対するムルソーの回答に違和感を覚えるが、ムルソーとしては思ったことを当たり前のように言っただけである。予審判事に至っては、ムルソーの前にキリストの十字架像を突き出し、自らキリスト教徒であると告白するが、ムルソーは信仰を持っていない。やがて、三人は打ち解けた様子となり、予審判事はムルソーを「反キリストさん」とからかうまでになる。
裁判の場面になるに及び、この130ページ程度の和訳された小説が、綿密な計算の上に書かれたものであることに気づかされる。証人として、養老院の院長、同じく養老院の門衛、養老院の入所者で母親の友人でもあったトマ・ペレーズ老人、レエモン、マソン、サラマノ老人、マリイが呼ばれる。最後に、ムルソー行きつけの料理屋のセレストも立ち上がる。最初に証言をしたのは、養老院の院長である。院長の証言は次のようなものである。①ムルソーが埋葬の日にあまりにも冷静だったこと。②ムルソーが母親の顔を見ようともせず、涙も見せなかったこと。③埋葬が終わると黙祷もせずに立ち去ったこと。④ムルソーが母親の年齢を知らなかったこと。この四点である。次に門衛の証言である。「門衛は、このひとはママンの顔を見たがらなかった、煙草を吸った、よく眠った、ミルク・コーヒーを飲んだ、といった。」二人が証言したムルソーの行動は第一部でも描写されたものである。ムルソーが母親を養老院に入れたのにはそれなりの理由があってのことであり、門衛が証言したことも、事の成り行きでそうなったに過ぎない。だが、ムルソーは傍聴席全体を敵に回しているように感じる。
順番は料理屋のセレストに回る。セレストは一貫してムルソーの事件が不運なものであったと証言する。セレストの証言にムルソーは内心で感謝する。だが、マリイの番になって状況が一変する。検事は皮肉な態度で、ムルソーとマリイとの関係が始まった日(母親の死の翌日)の詳細を聞き出そうとする。マリイは渋々答えることになる。マリイは次のように回答する。①海水浴へ行ったこと。②映画へ出かけたこと。③二人でムルソーの部屋へ帰ったこと。以上の三点である。検事はさらに映画の内容を聞き出そうとする。マリイが「フェルナンデルの映画」と答えると、場内に沈黙が漂う。検事の思うがままの事態となり、こう宣言する。「陪審員の方々、その母の死の翌日、この男は、海水浴へゆき、女と情事をはじめ、喜劇映画を見に行って笑いころげたのです。もうこれ以上あなたがたに申すことはありません」マリイは泣き崩れ、その後、サラマノ老人とレエモンがムルソーの誠実さと不運を訴えたが、劣勢が覆ることはなく、判決は斬首刑となる。
この短い「不条理」小説の特徴を際立たせるのは、物語の最終盤での独房の場面である。ムルソーは、御用司祭の面会を頑なに拒否していたのであるが、思いもよらぬ時間に、無断で司祭が顔を見せる。だが、ムルソーは神を信じていない。司祭との対話は殺伐としたものとなり、やがてムルソーは司祭を罵る。司祭が独房を出ると、ムルソーは平静を取り戻す。神を信仰しないこの近代的なインテリは、「不条理」を「不条理」のままに受け入れるだけである。そこに信仰のパトスはない。ムルソーは、何も希望を持たず、完全に死んでいくと考えながら生きている。
この小説は次のような言葉で締め括られる。
あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
「異邦人」と言うと、エキゾチックなイメージや外国人という意味が浮かび上がりそうだが、ムルソーの状態はまさに外国人のようである。原題はエトランジェであり、英語のストレンジャーに相当し、適切な和訳ではある。だが、ムルソーは外国人ではない。ムルソーの状態に適うのは、むしろアウトサイダーであるように思われる。しかし、ムルソーには元々そのような意識はない。他者によって、また法律によって、そう規定された上で、自らもその意識化を強いられたのである。
本作は、第一部と第二部とで、全体の印象が異なる。第一部は先にも述べたように、いたってありふれた日常の出来事ばかりが描かれている。アラビア人の一団が襲撃に来る場面を除いては。第二部は、ムルソーが逮捕された後ということもあって、どの場面であれ緊張感に満ちている。裁判の場面において、あのありふれた日常の出来事が描かれる第一部までもが綿密な計算の上に書かれていることに気づかされる。「不条理」という主題を表わすためであれ、筆者は計算的に書かれたものはあまり好まないほうであり、逆に無意識のままに書き続けられたもののほうにこそ、真実味を覚える性格である。だが、裁判の過程での、証人の証言に対する検事と弁護士の反応に筆者は突き放されるような感覚を覚えた。ある時、ある場合に、検事や弁護士があたかも英雄のように扱われることがあるが、カミュが描き出したのは、生々しい双方による闘争である。そこにおいて、ムルソーは被告であるにもかかわらず、置き去りにされている。あくまでフィクションであるが、これが裁判の実態であると思えてならない。
時世柄、なぜ『ペスト』を扱わないのか、または、『シーシュポスの神話』を扱わないのかと思われるかも知れない。実を言えば、筆者が『異邦人』を初めて読んだのは、中学生の頃である。当時はまだ文学とは縁のなかった筆者にとって、本作は非常に衝撃的なもののように思えた。その影響かどうかはわからないが、今回本作を再読して、筆者がこれまでいかにカミュ的な生き方をしてきたことに気づかされた。カミュのように「不条理」を内向的に受け入れることから脱却しなければならない。それは、キルケゴールのように信仰のパトスでもって「不条理」に対峙することでもない。先日、かの文学的な保守系文芸批評家が、キルケゴールの三段階を持ち出して、最終段階(宗教的な次元)に届く批評がないと言い、もう期待することはないと漏らしていたが、筆者の知ったことではない。どこにいようが、貴方のほうが最も文学的であると言っておく。筆者としては、サルトルとはまた別の形で、何かしらの「情況」へのアクションを起こすのみである。その意味で、今回の記述が過去の筆者の埋葬となる。
(窪田啓作訳、新潮文庫、1954年9月刊)
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