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エセーの試み(1)――人文書院note企画「批評の座標」岡田基生氏の回とその他諸々

 先日、大学院生の時(哲学)の指導教員だった板橋勇仁氏と約3年ぶりにメールのやりとりをした。
 とはいえ、その間に大学での哲学会の大会でお話しする機会はあった。ただ、私のほうからやや距離を取りつつの会話に終始した。何かまた妙なことに巻き込まれると思えたからである。今回のやりとりは幾つか質問したいことが出てきたことによる。
 まず初めに、昨年末(12月)に開催された大学の哲学会の大会について触れた。大厩諒氏を招いてウィリアム・ジェイムズの哲学の可能性について議論した大会だった。この日の特定質問者には板橋氏の下で博士論文執筆中のA君が指名されていた。司会は板橋氏の予定であったが、当日急遽欠席となった。そのため私は、「内容はよくわかりませんでしたが、A君は無難にこなしていたと思います」、「私でしたら間違いなく揉め事を起こしていたはずです」、「博士論文の完成を期待していると本人に伝えて下さい」とのことを板橋氏に伝えた。修士上がりの私が言うのも何だかなと思っているが。
 最も聞きたかったのは次のようなものである。
 昨年の4月から人文書院のnote企画「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」が始まった。「毎月2名の新人批評家・ライターたちが過去の日本の批評家・著述家たちを紹介」とのこと。毎回、楽しく読ませていただいているが、第19回の岡田基生氏の「「戦場」から「遊び場」へ――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに「批評」の論争的性格を問い直す」の内容に私は困惑した。
 岡田氏はかつて板橋氏の研究室に毎週来ていた(2015年頃)。板橋氏の研究室のみならず、別の大学の西田の研究者のところにも岡田氏は頻繁に訪問していた。私も岡田氏も大学院生の頃のことである。板橋氏の研究室では、私と仲の悪かった自我主義者の同期のM氏も含めて中期の西田の文章を読んでいた。岡田氏は自らの研究対象についてよく喋る方だった。周りがついていけないほどであった。西田がどうの、田辺元がどうの、西谷啓治がどうの、新カント派がどうのといったふうである。三木のことはまったく聞き覚えがない。批評に関心のあるタイプとも思ってなかった。それだけに、当時の岡田氏の印象と「批評の座標」での内容がまったく結びつかなかった。それゆえ、板橋氏に意見を求めた次第である。
 板橋氏によれば、岡田氏が蔦屋書店の人文コンシェルジュのような仕事をしていることを噂で聞いており、修士論文などと直接には関わりはなさそうだが大きく矛盾する気もしない、とのこと。板橋氏は、岡田氏の活躍をたいへん喜んでいた。板橋氏にしてみれば、岡田氏は直系(上智大学)の後輩である。当たり前と言えば当たり前である。だが、私はどこか複雑な気がしてならなかった。
 私が岡田氏と最後にお会いしたのはもう8年も前のことである。その後の動向も一切知らなかった。もちろん修士論文のタイトルも。岡田氏のことだからてっきりアカデミアでの研究を継続していると思っていた。東日本大震災や哲学対話(または哲学カフェ)のことなども岡田氏の口からは一切聞いたことがない。岡田氏は、「批評が生み出す「論争」が「戦争」になることを避けること」をお考えのようであるが、私にしてみれば岡田氏の試みは資本家同士が考案したような知的遊戯場の建設でしかない。日々、生活に追われる物書きにしてみれば、そこで遊んでいる暇などない。むしろ白々しいとさえ思える。そもそも岡田氏と三木とでは置かれた境遇が異なる。言葉は悪いかも知れないが、三木を借りて自らの試みを正当化しているようにも思えた。
 当時、板橋氏の研究室ではこんなことがあった。岡田氏が西田について論考めいたものを書いてきた。私とM氏は板橋氏からコメントを求められた。私は気になった箇所を一言だけ尋ねたが、急に岡田氏が怒り出し一触即発の事態になりかけた。史学科から来たばかりの私にああだこうだ言われたくないと思ったのかどうかはわからない。ただ一言だけ尋ねたに過ぎない。それに私は来たくて哲学科に来た訳ではない。岡田氏はいまだに私のことを和辻哲郎の研究者のように思っているかどうかはわからないが、私が和辻を選んだのも、板橋氏の専門に合わせたのに加え、とにかく歴史学に頭に来ていたからである。史学科での卒業論文のサブタイトルを「歴史の終わり」としたぐらいである。これは指導教員がヘーゲルを好んでいたので書いてやったようなものである。諸事情あって、史学科の時の指導教員と私は互いに足を踏みつけながら笑顔で握手するような関係だったので、哲学科にぶっ飛ばされたようなものである。板橋氏には、もう和辻について書くことはないと伝えている。歴史学をぶっ壊す上で利用するかも知れないが。
 とにかく、言葉の大安売りを自覚しつつも、岡田氏は私の知らない間に「転向」したと捉える。岡田氏の試みが人文学の発展になるとは別に私は思わない。
 板橋氏には、次のようなことも尋ねた。「新型コロナウイルスの位置づけが変わりましたが、哲学堂公園の桜を見る会は開催されますか?」、と。板橋氏によれば、開催予定とのこと。名簿は作成しないと思う。裏名簿のほうはどうかわからないが。スノビズムに陥っているつもりは毛頭ない。板橋氏はいつもキーボードでの弾き語りを披露される。久々にユニコーンの「すばらしい日々」が聴けそうだ。ヴィム・ヴェンダースの新作映画『PERFECT DAYS』など知ったことではない。
 5年ぶりに中野駅に降り立つことになる。その間に周辺の風景は様変わりしているかも知れない。再開発である。昨年7月には中野サンプラザが閉館した。渋谷区のMIYASHITA PARKや1964年の東京オリンピックのために建てられ本来は武道の聖地である九段下の巨大な玉葱のようなヘンテコな建築物の建設だけはやめていただきたい。

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