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折本龍則「岸田首相は統帥権を天皇陛下に奉還せよ」(『維新と興亜』第15号、令和4年10月28日発売)

 ウクライナ戦争に乗じて中共政府が台湾や尖閣諸島に侵攻するリスクが高まっている。いざ中共が尖閣諸島への侵攻に乗り出したとしても、島嶼防衛の任にあたる日本版海兵隊である水陸機動団は尖閣から遠く離れた佐世保に駐屯しているため間に合わないだろう。しかし、一度取られた島を奪還するのは守るよりも十倍のエネルギーを要するともいわれ、多くの犠牲を伴うことになる。場合によっては、ミサイル基地を置く石垣島や宮古島も中共によるミサイル攻撃の標的にされ多くの民間人が死傷する可能性がある。
 問題はそうした犠牲を払ってでも尖閣を死守するための戦争遂行能力が我が国政府や国民にあるのかということである。岸田首相はただでさえ柔弱な上に、戦争で犠牲者が出れば支持率が急落し、国内では橋下徹氏のように降伏を主張し出す輩まで現れかねない。そうした場合、たとえ自民党の改憲草案にある自衛隊の国軍化や自衛隊の憲法への明記を実現し、岸田首相が謳うように防衛予算を倍増したとしても、実際の戦争を戦い抜くことは出来ないのではないか。
軍政と軍令の分離
 国家が敵との戦いに勝利するためには、軍の作戦遂行が、世論を代表する議会や、議会に責任をおう内閣の動向に左右されないように、「軍令」(統帥部)と「軍政」(内閣)が分離していなければならない。
 しかし現行の自衛隊法では、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣と規定されているため、軍令と軍政が一体化し、むしろ文民統制(シビリアン・コントロール)の下で軍令が軍政に従属している。しかし両者を一体とする弊害は、坊門宰相清忠(公卿の身でありながら後醍醐天皇の比叡山への遷幸を主張した楠木正成の献策を斥け、湊川で足利高氏の大軍を迎え撃つように強いた)の例を持ち出すまでもなく枚挙にいとまがない。
 こうした弊害を避けるため、明治十一年、山県有朋は陸軍省参謀局から参謀本部を独立させ、天皇直属の統帥機関とした。さらに、大日本帝国憲法では、立法権や官制および任命大権、統帥権、外交権、戒厳権、栄典権、恩赦権を天皇大権として規定する一方で、第五十五条において「凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す」とし内閣の輔弼がなければ勅命も無効としたが、それでも統帥権と栄典権のみは内閣の輔弼も不要としたのである。
 戦後、自衛隊は内閣に従属する警察予備隊として創設され今日に至っているが、上述した様に戦争の脅威が高まる中で我が国が敵との戦いに敢闘勝利するためには、軍令と軍政を分離し統帥権を内閣から独立させる必要がある。ではその統帥部は何処に帰属するのか。筆者は、それは天皇陛下をおいて他にないと考える。以下にその理由を述べる。
我が国の国軍は天皇の軍隊である
 第一に、元来我が国の正統なる軍隊は、天皇陛下を大元帥に仰ぐ皇軍でなければならない。明治十五年に渙発された『軍人勅諭』は、神武建国以来、兵馬の権たる統帥権が朝廷に帰属することを説き、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と宣明された。とはいえ、歴史上朝廷が兵馬の権を掌握していた期間は短いが、事物の本質は時間の長短に左右されるものではない。
いうまでもなく、戦争は祖国の為に命を捧げる行為であり、将兵は、「自分は何のために戦うのか」、あるいは「何のために死ぬのか」という道徳的な問いに直面せざるをえない。その際、我々日本人は天皇陛下のために戦うことは出来ても、首相のために戦うことはできない。
 もちろん愛する家族や故郷のために戦うのであるが、それらや我が国の歴史、伝統文化を全て内包して象徴的に体現された御方が天皇陛下なのだ。わが国民は、天皇陛下への忠義を通じて初めて精神的に帰一し死力を尽くして戦うことができるのであって、首相の軍隊では民族の底力を発揮できない。
 第二に、通常、国軍の統帥権者は、その国の国家元首が務めるのが一般的であり、君主国では国王、共和国では大統領が務めている。それは国家元首という存在が国民の精神的拠り所であり、国民の精神的団結の支柱になるからだ。
 先日女王が亡くなった英国は、我が国と同じ立憲君主制を敷きながらも、軍の最高指揮権は国王に帰属し、他のノルウェーやスウェーデン、ベルギーといった君主国においても国王は憲法で軍の統帥権者と規定されている。しかしながら、自民党が安倍総裁のもとで平成二十四年四月に発表した改憲草案では、第一条で天皇を「国家元首」として明記しつつも、九条の二では「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と記し、統帥権はあくまで首相に帰属するものと規定している。これでは国家元首とは言えないし、正当な国防軍とも言えない。
自由と平和の守護者としての皇軍
 第三に、軍令部を天皇陛下に直属させることは、国軍を政府の軍隊ではなく天皇=国体の軍隊にすることで自由な立憲秩序の守護者にするという意味がある。三島由紀夫は『檄文』において、「国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である」と述べたが、軍隊が政体の長である首相の指揮下に置かれると、政府=与党の軍隊と化し、反対党たる野党への弾圧に使われかねない。また対外的には、対米従属を続ける政府の軍隊として米軍の補完部隊(尖兵)とならざるをえない。葦津珍彦氏は『大元帥の統帥と軍政との間』と題する論稿において、大日本帝国憲法における統帥権の独立の真意は、軍の政治的中立を確保することで「政治に対する軍の圧力を抑制せねばならないといふのが、帝国憲法起案時代の精神であった。」しかしながらその後、統帥権の独立は、軍ないしは軍人への全的委任と誤解され軍部の専横に陥ったと述べている。軍があらゆる党派抗争から超越し自由な立憲秩序の守護者になるためにこそ、その統帥権は、一視同仁の大御心を以て大御宝たる国民を精神的に統合される天皇陛下に帰属せねばならないのだ。
 第四に、巷間、統帥権の独立が軍部の暴走を招いたかの如く信じられているが、実態は裏腹に、天皇による統帥が不徹底であったが故に軍が暴走したともいえるのではないか。
 その端的な事例が、昭和陛下のご叡慮を無視した関東軍による熱河作戦の遂行である。あのとき陛下は、満州事変以降の河北への戦線拡大につながる熱河作戦に反対され、「日支両国平和をもって相処すべく」統帥最高命令によって作戦を中止させることは出来ないか奈良侍従武官長に意見を求められたが奈良はこれに反対した。そこで牧野伸顕は重臣会議を開いて中止させようとしたが西園寺公望が消極的であったため開かれなかった。
 昭和陛下は英国流の立憲君主を模範とされ消極的君主に努められたが、もしあのとき毅然と作戦の中止を厳命され統帥権を干犯する関東軍への粛軍命令を発せられていたならば、その後の歴史は大きく変わっていたであろう。古来天皇は平和の象徴であり、その天皇が統帥し給う皇軍は、神武天皇や日本武尊が荒ぶる神とまつろわぬ人々を御稜威(天皇の権威)によって「言向け和」して帰服させたという伝承が示すように、平和と道義の伝道者である。しかしながらその皇軍が暴走したのは、統帥権が独立していたからではなく、逆に統帥権が発動されなかったからである。
 第五に、天皇の統帥し給う皇軍は、天皇と国民を疎隔する幕府勢力を打破する原動力になる。幕末の尊攘派志士である真木和泉守は、御親兵の設置を建策し、攘夷親征による討幕を唱導した。現代の幕府勢力を打倒し一君万民の国体を恢復するには、皇軍の再建が不可欠である。
 最後に、天皇が軍を統帥される場合、仮に敗戦した際の責任が上御一人に及ぶのではないかという心配がある。そのようなことは、臣下として大変畏れ多く忍び難いことである。
 しかし天皇の統帥は、陛下が一々作戦について命令されるということではなく、統帥部が陛下のご叡慮を拝しながら作戦を決定するのであって、勝敗の一次的責任は統帥部にある。それは帝国憲法が天皇大権を定めながらも天皇は政治的に無答責であり(第三条)、その責任は輔弼の任に当たる内閣が負うのと同じである。天皇は国体の体現者であり政体上の責任は内閣と軍が負う。
 以上の理由により、岸田首相は自衛隊の統帥権を天皇陛下に奉還し、建軍の本義を正すべきであると考える。


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