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小野耕資「誠の人 前原一誠① 東京で栄達した人間につぶされた萩の変」(『維新と興亜』第15号、令和4年10月28日発売)

「誠実人に過ぐ」人、前原一誠


 佐世八十郎について書く。
 八十郎は萩で長州藩士の子として生まれた。れっきとした源氏の家で、毛利家の直臣の家柄である。ただしもはや八十郎が産まれたころには、直臣とは名ばかりで微禄と化しており、父彦七が地方官をしてかろうじて食いつないでいた。それでも家格に対する誇りは高く、峻厳たる家風の元育った。
 彦七は「子女を教育するに極めて厳格なる」人物であった。そんな彦七から生まれた八十郎は、師である松陰から「八十郎は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し」と評されたという。
 八十郎はこのことを誇りに思ったか、「一誠」という「誠」を一心不乱に求める号を用いた。
 そう、佐世八十郎とは、松下村塾で松陰の弟子となるも、明治維新後萩の変を起こして刑死する、前原一誠のことである。
 前原一誠はなぜ萩の変を起さなければならなかったのか。そこに明治維新以降の政治の本質が透けて見える気がしたのである。教科書的には萩の変は明治初年に起った士族反乱のひとつとして数えられる。たしかに士族を軽んじたことによる反発はあっただろうが、それは事の本質ではない気がする。萩の変には松陰の師玉木文之進の養子正誼、松陰の後の吉田家後継者吉田小太郎(兄杉民治の子)、杉家跡取りである杉相次郎がいずれも前原側に与した。いわば松下村塾の精神は前原側にあったのである。それを長州人でありながら東京で栄達した連中が「乱」であるかのように仕立て上げ潰した。それが萩の変の本質ではないだろうか。
 萩は山口県の日本海側で、空港も新幹線も近くを通っておらず、現在もアクセスがいい場所とは言えない。あれほど総理大臣を出した地であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに等閑に付されているのか? それこそが「東京で栄達した長州人」が忘れた長州精神を象徴しているのではないだろうか。そう考えてみると歴代の長州に縁がある総理大臣は萩の変を弾圧した側ばかりなのだ。伊藤博文や山縣有朋はもちろん、桂太郎や寺内正毅は直接関与していないが山縣閥である。そして何より岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は前原一誠を最後に逮捕した島根県令佐藤信寛の子孫である。歴代長州出身の総理大臣で前原側だった人物は当時少年ながら蹶起に参加した田中義一くらいのものである。それほど萩の変は長州に重くのしかかっているのだ。
 前原一誠も萩の変が成功しないことは知っていたに違いない。しかしそれでも通そうとした「誠」とは何だったのか。それを考えるのが本稿の目的である。

足が悪く陰気な青年、松下村塾に学ぶ


 先ほど父彦七は地方官をして食いつないでいたと書いた。八十郎がまだ小さいときに彦七は郡吏となり、地方に移住する。そこでは小禄(四十七石)である佐世家は農民に交じって生活していた。一誠は民の生活を気にかけることを政治の本分としていたが、それは思想信条に因るだけでなく、こうした幼少期の経験が影響を与えているのかもしれない。八十郎は天保五年(1834年)生まれ。大坂で打ちこわしがあるなど不穏な情勢であった。天保七年には大飢饉が起こり、八年には大塩平八郎の変、生田万の変が起きている。
 十三歳の時に萩に遊学する。このときは松陰に会ったわけではない。十七歳の時に一時的に帰郷することになるが、その際に落馬して瀕死の重傷を負った。このことにより彼は足を痛め、その足の痛みは一生つきまとうものであった。それ以上に深刻であったのが、武士にも拘わらず落馬して負傷するという不名誉を被ったことである。八十郎は寡黙で陰気な青年として育った。
 「死んでしまおうか」
 八十郎青年の心は蝕まれていた。しかし父母への孝行の気持ちから、死ぬことは出来なかった。
 「斃れずして今日に至ると雖も、足疾常に痛み、旨痛時に発す。父母の心を労さしむ、其罪これより大なるはなし。而して身また一日の安きを覚えず」。
 八十郎は自分の生きる意味を見だせずにいた。
 十九歳の頃、松陰は東北旅行の為脱藩。その後ペリーの黒船に同乗しようとした咎でも捕まっていたが、野山獄で同じ囚人に講義。その後安政四年(1857年)に杉家に禁錮処分となり、講義を開始した。これが松陰による松下村塾である。藩もきっての秀才と言われた松陰の学才を惜しみ、講義するに任せたのである。八十郎もそのとき松下村塾に通っている。
 八十郎は松下村塾門下生の中では圧倒的に年齢が高い。門下筆頭格である久坂玄瑞や高杉晋作は五歳以上若く、その他の同人も似たような年齢である。その中で一人年長の八十郎は異質な存在であった。
 そして八十郎が他の同人と異質だったことは、公務の合間に志願して松下村塾に通ったことだ。
 「家君、一日余に謂ひて曰く、汝幸に出てあり、宜しく学を松陰吉田先生に従ふべしと。余が心先生に従はんと欲するは、平生の志なり。故に決然として起ち、欣々然、手足の舞踏するを覚えず。草卒に往きて先生に従へり」
 そのような決意で入塾したのである。ところが先ほども述べた通り、貧しき中を公務と公務の合間を縫って参加した入塾である。長くはいられなかった。八十郎は一月ほどで辞去しなければならなかった。「十日」と書いている資料もある。厳密に十日間しかいなかったのかは定かではないが、それほど短い時間であったことは確かだろう。にもかかわらず松陰は、「佐世君が郷に帰るを送る」という漢詩を送っている。「十日君と読み 今日の帰るを送る 君の武はもと赳々たり また国威を助くるに足る」から始まる堂々たる詩である。
 このわずか十日余りの寄宿が、八十郎を「一誠」と号するまでの深い感動を与えたのである。
 ところで八十郎青年は貧乏しながら父の跡を継いで小吏として食いつないでいた人間である。学問はそれほどできなかったらしい。同門からは「佐世八十郎は村塾にても余り多くは読書せず」と言われている。久坂玄瑞や高杉晋作のようなあふれる才気はなかったに違いない。読書と親孝行だけを喜びとした陰気な八十郎青年は、他者にわかるような華のある人物ではなかったようである。
 松陰は松下村塾に於て、弟子一人一人に課題図書を授けていた。内容に対する講義もさることながら、感想も交えた議論が松下村塾の講義スタイルであった。八十郎に松陰が与えた課題図書が、頼山陽の『日本政記』である。
 頼山陽は崎門学の影響がある広島竹原で育った唐崎常陸介(士愛)と父春水が盟友関係にあったように、崎門派の影響がある朱子学者である。その議論は、漢詩人としては朗々たる尊皇心を歌い上げるところに特徴があったが、冷静な議論においてはいかにも儒学的な見解を述べる人物であった。有名な『日本外史』はその中間にあたる。八十郎が与えられた『日本政記』は最晩年の書で、神武天皇から後陽成天皇までの歴史を記したもので、どちらかと言えば儒学的な公式論に近い。『日本楽府』のような激しい漢詩集ではなく、落ち着いた政論を授けたのにも、松陰の何らかの意図があったものと思われる。その意図は明快ではないが、その後の一誠の政治を見ると、まさに『日本政記』を旨としていたようにも思われる。
 『日本政記』は歴史的記事の他に山陽の史論を記す論文から成り立っている。論文の内容は簡単に要約すれば、①君主は人民のために存在する。君主は民を天からの預かりものと思わなければならない②君主は祖先の神霊にこたえて人民を安んじなければならない③租税や課役は軽くして、人民を慰撫する愛民の精神が重要である ということになるだろう。こうした儒教的愛民精神は後に一誠の政治論の中心となっていくのである。

松陰の死


 安政五年(1858年)、松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、再投獄される。老中間部詮勝を襲撃する計画も立てた。松陰は獄中から弟子に蹶起に向けて指示を飛ばす。ところが久坂玄瑞や高杉晋作ら松下村塾の弟子たちは、松陰の計画は無謀であると、否定的見解を示した。
「僕は忠義をする積り、諸友(久坂、高杉)は功業をなす積り」
 松陰の有名な一節はこのとき示されたのである。松陰の計画に同調したのは、野村靖、入江九一兄弟のみであったとされる。実は八十郎も当初は師の計画に賛意を示していた。しかし藩から父彦七に圧力が加わったこと、長崎に留学し西洋式兵術を学ぶよう藩から命令があったことで八十郎の心は揺れる。長崎留学の件は明白な懐柔である。八十郎の心は揺れたが、次第に父母への孝を選び長崎へ遊学する方へ気持ちが傾いていく。そのことに松陰は激怒し、絶交を言い渡す。八十郎はそのことをメソメソと気に病んで、長崎での教練も身が入らず、しまいには「足が痛い」などといって教練をサボるようになる。八十郎は三か月後萩に返された。八十郎は松陰に謝罪の手紙を書く。松陰は八十郎への勘気を解いたようだが、その直後安政六年(1859年)に安政の大獄によって江戸で刑死することになるのである。享年三十。


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