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《目利き》の値うち

 真摯な酷評を堂々と明言してくれる《目利き》は、貴重である。

 ごく単純なことだ。評判のラーメン屋に行ってみたら食ったことを後悔するほど不味かったとする。そのラーメン屋を一刀両断に「あそこは不味い」と述べている評論家がおり、その評論家が別の店を絶賛していたとしたら、私はその店に行ってみたいと思うだろう。が、その逆はない。そういうことである。
 
 絶賛・称賛ばかりを並べ、「よいものだけ」を紹介する目利き、などというものは、世間的・業界的な聞こえや受けはいいのだろうけど、愛好家にとって信頼できる判断基準、という意味では何の役にも立たない。率直・辛辣な評者は敵も多いだろうが、その実、価値判断の明瞭さと確実さによって、信頼できる安定した基準・指標としてその道の愛好家には役立ってくれる。私が大嫌いなものばかり必ず褒め、好きなものを必ずけなしてくれる評論家がいたら、私はその評論家を“信頼”するだろう。その判断は実際にものを選ぶ上で役に立つからだ。これはひとえに、その目利きが常に自らの価値基準に誠実であるかどうかにかかっている。

 本書『作家の値うち』に関して分りやすい一例を挙げよう。筆者小川榮太郎氏は、本書の執筆中からSNS上で再三羽田圭介氏を絶賛していたので、私も興味を持ち、たまたま図書館に置いてあった羽田氏の芥川賞受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」を借りてきて読んだのだが、期待に反しつまらなかった。こんな作品を書く作家を絶賛するとは、批評家小川榮太郎もずいぶん焼きが回ったなとそのときは思ったが、本書の羽田圭介の項目を読んでみると、ちゃんと?「スクラップ・アンド・ビルド」は酷評されていた。他の作品は絶賛もしくはまずまずの好評であるのに、だ。

 この場合評者は「スクラップ~」を酷評し、私の感想とこれは一致したのだから、評者が褒めている羽田氏の別の作品は私にとっても良作であると期待できるわけで、じゃあ気を取り直してそっちを読んでみようかという気にもなる。が、仮に小川氏が「スクラップ・アンド・ビルド」を含む羽田圭介の全作品をべた褒めしていたとしたら、私は氏の目利きへの「信用」を完全に失い、その先は評者がどれほどの言葉を尽くして絶賛しようとも、その推薦作品を読もうという気にはならなかったろう。

 否定的な価値判断、評価を全く表明しない「褒め屋」は、顧客やオーディエンスの役には立たない。こんなのはごく当たり前の生活実感であり、我々が生きる上でさまざまなところで活用している健全な良識である。あいにく現代の文化はこうした健全な良識への耐性を失ったジャンルばかりで、どこもかしこも「評価」のふりをした宣伝文句、キャンペーンのキャッチコピーで満ちている。顧客やオーディエンスは愚かな子羊に見えて実はそうでもない。マーケティングの惹句に食傷し切っている我々は、本気の賞賛、本気の酷評には敏感に反応する。文壇業界、出版業界は本書の登場に顔をしかめるだろうが、少しは顧客である我々子羊の索漠たる心境を慮ってみるがいい。我々は君らのマーケティング戦略にはもうとうに飽き飽きしていて、本屋に平積みにされている新刊なんぞには一瞥もくれず我が家に戻り、今宵もボロボロになった古い文庫本のコナン・ドイルや池波正太郎を読んでいたりするのだ。

 新しい作家、新しい本を本気で売りたいと思うなら、新聞広告の宣伝コピーや書店キャンペーンのアイデアに知恵を絞ってばかりいないで、本書の著者のような妥協なき目利きを満足させる、真に実質ある作品を世に送り出したまえ。その目利きが褒めているなら、私もその本を買いに行くだろう。そこに本書の“値うち”がある。


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