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“決定的名演”の虚しさ

 コルトーはショパンの《24の前奏曲》に特別なこだわりがあったようで、1926、1933、1942、1957年と、壮年期から晩年に至るまでに計4種のスタジオ録音を残しているのに加え、1955年のミュンヘンでのライブ録音もある。今回シェアしたのは1926年の最初の録音で、希少な英His Masters Voice オリジナルの78回転盤から収録した再生音である。

 これは戦前の日本の愛好家たちを狂喜させ、日本でのコルトーの名声を決定的なものにしたエポック・メイキングな演奏だが、戦後になってから長らく再発・復刻がなく、今ではなかば忘れられている。一方で1933年の2回目の録音はLP、CD時代を通じて何度も再発されており、カタログから消えたことはない。多くのファンが「コルトーのプレリュード集」「往年の名演奏」として認知しているのはこちらだろう。

 面白いことに、戦前の愛好家たちは1933年再録音の発売当時、「コルトーもやや老いた」「往年の颯爽とした覇気が減退した」といった具合にあまり高く評価せず、センセーションを呼んだ旧録音を初めて聴いた時の興奮と感激を懐かしむ声が大勢を占めたそうである。


 私自身の感想はといえば、再録音も旧録音とはまた別の趣きと味わいを持つ見事な演奏であり、こちらも昔からずっと愛聴している。コルトーが残した他の3つの録音についても同様で、どれか一つだけを取れと言われれば、やむなく最晩年の1955年ミュンヘン・ライブを選ぶかもしれないが、どれか一つだけ取るという必要は現実にはないので、ききたい時にその時の気分に合わせてどれかを選ぶのが常である。


 まあ、こういうのは、少女時代の美空ひばりが歌う「リンゴ追分」と、三十過ぎてから、あるいは晩年の同じ曲の歌唱とを比べてどれが一番優れているか、というような話と同じだろう。どれにもそれぞれに固有の良さがあり、耳を傾けて味わう意味があり、価値がある。それらを比較するのは遊びとしては面白いかもしれないが、どれが一番――というような判定に何ら重みがあるわけでもない。

 さて、ショパンの《24の前奏曲》については、コルトーの録音はあくまで「歴史的」名演という扱いでしかなく、現代の音楽ファンの間で “決定的名演” としてスタンダードとなっているのは、マウリツィオ・ポリーニによる1974年の録音である。なるほど、今きき直してみても、これはすごいものだと賛嘆させられる。同じくポリーニによるショパンの《練習曲集》とともに、メカニックの精度、音響の正確無比なコントロール、楽譜の再現性のこれ以上ないほどの高さ、見通しの良さ、傷のなさなど、ピアノを弾くという行為がこれほどまでに精錬され、あらゆる細部にわたり一分の隙や緩みもなく磨き抜かれた演奏記録は、ほぼ空前絶後といえるかもしれない。

 とはいえ、私がこのポリーニの《24の前奏曲》録音を最後まできき通すことは、まずない。どこまできいても、寸分の狂いもなく同じ「究極的に見事なピアノ演奏」しか聴くことができないからだ。3分でやめても、30分きき続けても、きき手である私が受け取るものは変わらない。なら、どうして最後まできく必要があるだろう?

 似たような――しかし同じではない――例を、現代日本のポピュラー歌手で挙げてみよう。MISIAさんは歌唱のテクニック、声量の豊かさ、声質の見事さなど、ほぼ非の打ちどころのないシンガーだと思うが、私にはいつ、どの曲の歌唱をきいても、同じ「MISIAという抜群にうまいシンガー」しかきこえてこない。何をきいても基本的にはどれも一緒で、MISIAの歌唱としてこれは92点、次は90点、今度は98点だったね、という感想にしかならないので、あれこれの曲を残らずきいてみたい――という欲求は正直なところ湧いてこない。が、それをそういうものとして楽しむ多くの熱心なファンがいることに、私は別段何の文句もない。

 一方で、松任谷由実さんはシンガーとしてはMISIAとは比べるまでもなく下手だが、「ユーミンなんて駄目だよ、MISIAより全然歌ヘタじゃん」などという評価を下すファンがいたら、ユーミンのファンはもちろん、MISIAのファンからも失笑を買うだろう。大衆音楽の聴衆にはそういう健全な感覚がある。対して、近・現代のクラシック音楽の世界は、今もって「ユーミンはMISIAよりも下手」というたぐいのあほうくさい価値観が、ごく当たり前に支配している。クラシック音楽をきく人が年々減っていくのも無理はあるまい。

 さらに脱線すると、「抜群に歌がうまい歌手」といえば今はMISIA、昔なら美空ひばりだろうが、私にとっては大きな違いがある。ひばりの場合、「いつ、何をきいても同じ」ではないからだ。「東京キッド」「リンゴ追分」「港町十三番地」から「悲しい酒」「柔」「みだれ髪」「川の流れのように」に至るまで、どれも見事な歌唱であるということだけは同じだが、それぞれの曲の味わいや趣きはまるで異なっているし、何か一つの基準を設けてこれらを採点し、上下を付けられるようなものではなく、それぞれに固有の得難い値打ちがある――というのは誰の耳にも明らかなことだろう。単に楽曲や年代の違いだけではない。ひばりはこれらの曲を若い頃から最晩年に至るまでさまざまな舞台で何度も歌っているが、いつ、どこで歌ったものにもそれぞれに耳を傾けてきく意味があり、そこでしか得られない感動がある。

 優れた演奏や歌唱とは、本来、そういうものだろう。これが何らかの基準に基づく《完璧さ》を競う、一種の採点競技になってしまえば、100点満点の「決定的名演」だけが最高の価値を持ち、あとはそれより「劣った」演奏ということになる。が、そういうものを求めて、私たちは音楽をきくのだろうか?



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