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モーツァルトの”衝撃”――ルフェビュールとカザルスのニ短調ピアノ協奏曲

 フランスの大ピアニスト、イヴォンヌ・ルフェビュールが弾いたモーツァルトのピアノ協奏曲第20番といえば、前回ご紹介したフルトヴェングラーとの共演があまりにも有名なのだが、こちらはほとんど知られていない。かなり以前にCBSソニーからCDが出ていたが、とうに廃盤になっているし話題になることもない。そのCDは実に酷い代物で、過剰なノイズフィルターで楽音が完全に潰れ、全く死んだ音になっていて、これでは演奏の真価などわかりようがない。早々に忘れ去られたのも無理はない。

 だが、これは大変な、非常な、名演である。ただ立派な、見事な演奏と言って済ませることのできない、特別な何かを経験させてくれるものだ。モーツァルトの演奏録音は星の数ほどあるし、その中には美しい演奏、良い演奏、立派な演奏がいくつもある。が、そういう特別な”何か”に触れたときに起こる、稀有な衝撃を経験できるものはもちろん、そうそうあるわけではない。

 それがどういう種類の衝撃か、経験したことのある人には説明は要るまい。モーツァルトには見えていて、常人には見えていない”何か”に突然触れさせられたときに我々が覚える、あの底知れぬ、空恐ろしいような感覚と総毛立つほどの戦慄。

 小林秀雄に『モオツアルト』という大変有名な批評文があるが、これはいわば、小林がある日、ある瞬間にモーツァルトの響きから受けたそのような”衝撃”の感覚を、何とか言葉でもって伝えようとして苦心惨憺を重ねている、その記録のようなものだ。だが、そんなものはどうしたって言葉になりはしない。そんなことが小林さんに分らなかったわけはないが、それでも書かずにはいられなかった、そういう小林の、批評する一個の精神の逡巡するさまを骨身に染みて感じられないなら、この批評文を読んだことにはならない。「疾走する悲しみ」がどうしたとか、目に付くフレーズを取り上げてあれこれお喋りをしたって仕方ないのである。

 小林秀雄のような文章の名人でも描き切れなかったことを私がここで書けるはずもないが、彼が書こうとして十分には果たせなかった、モーツァルトの音楽が、何か魔に魅入られたような一瞬に突如開いてみせる底の知れない精神の深淵、それを垣間見せてくれる演奏記録をご紹介することはできる。それがこの、ルフェビュールとカザルスという二人の大音楽家によるニ短調ピアノ協奏曲の演奏記録である。1951年の古い録音でノイズも多く、ききやすいものではないが、ピアノ、管弦楽ともに恐ろしいほどに響きが”生きて”いて、言葉のほんとうの意味で”歌って”いる。「美」を超えた先で、音はこのように響くということを、この録音を通じて感じてくれる方が少しでもいてくれればと思う。


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