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飛行機の本#21 美貌なれ昭和(深田祐介)

副題が「諏訪根自子と神風号の男たち」である。副題があってもなかなかピンとくる人はいないかもしれない。

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表紙をめくると写真のページがある。キャプションは「ベルギーのブラッセル飛行場で、左から塚越賢爾、飯沼正明、来栖三郎大使、諏訪根自子、来栖輝」とある。次のページには「ロンドンのクロイドン飛行場に押し寄せた歓迎の人々」「吉田茂駐英大使と歓談する飯沼、塚越両飛行士」というキャプションがつけらた写真がある。昭和12年、朝日新聞社の飛行機「神風号」が、東京ーパリーロンドンの世界記録をうちたてる。この偉業を軸として、この写真に映る人々をめぐるドキュメントだ。書いたのは直木賞作家の深田祐介、発行者は半藤一利。「 美貌なれ昭和」はこのエピソードに吉川英治が寄せた一文のタイトルからつけられた。

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第二次世界大戦直前、戦争への予感が暗雲のように世界中に押し寄せる中で、閉塞感を吹き飛ばすような快挙とそれにまつわり世界で活躍した日本人たちの話である。登場する人物たちは、その後すぐに始まった戦争のためにそのエピソードが日本で記憶として刻まれることがなかった。知る人ぞ知る物語りになってしまったのだ。

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諏訪根自子(すわ ねじこ)は、大正9年(1920)生まれのバイオリニストで、少女の時からその容姿とヴァイオリンの実力が認められ「美貌の天才少女」と言われた。12歳のときに来日した世界的ヴァイオリニストのエフレム・ジンバリストの前でメンデルスゾーンのコンチェルトを演奏し驚嘆される(当時の演奏をYouTubeで聴くことができる)。16歳でベルギー国王の招聘で留学する。ベルギーに滞在しているときに「神風号」が記録を作りロンドンに着く。「神風号」の飯沼操縦士と塚越機関士は、ヨーロッパ各地に招かれて訪問飛行をする。ベルギーに立ち寄ったときに大使と共に出迎えたのが諏訪だった。そのときの写真が最初のページの写真なのだ。その後すぐに第二次世界大戦が始まり、諏訪根自子はパリへそしてドイツへと移る。ドイツでも歓迎され、ゲッペルス宣伝相から直にストラディバリを贈られる。敗戦までドイツにとどまり、戦後はアメリカ軍に身柄を拘束され、米国を経て帰国する。帰国時にいっしょだったドイツ外交官補の大賀小四郎と結婚し、戦後は日本で過ごすがあまり人前にでることがなく平成24年(2012)に92歳で死去する。


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飯沼正明は、大正元年(1912)に今の安曇野市に生まれた。旧制松本中学を出て逓信省の飛行機操縦プログラムで飛行士になり、朝日新聞社航空部に所属した。朝日新聞社は、昭和12年に英国王室戴冠式奉祝を兼ねて訪欧飛行を計画するが、その飛行士に抜擢された。当時、ヨーロッパから日本へ向けての100時間内飛行には懸賞がかけらていたが、長年達成されなかった。懸賞もなくなり、チャレンジャーがいなくなったときに逆コース(向かい風で不利になる)で94時間17分56秒の世界記録を達成する。ほとんど不眠不休の飛行だったが、到着前の最後の飛行には飛行服ではなくスーツに着替えて飛び、出迎えていた人々を驚かせた。この飛行は刻々と朝日新聞社が1面で報じ続けたため、到着時にはパリやロンドンでは出迎える人が大群衆になった。飯沼は日本に戻っても大騒ぎの中で出迎えられ、その爽やかな風貌で女性の憧れの的となった。しかし、昭和16年12月、開戦から3日後のプノンペン飛行場で他の飛行機のプロペラに巻き込まれ死亡する。


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塚越賢爾は、明治33年(1900)に弁護士の父とイギリス人看護師の母のもとで東京に生まれる。母は幼い賢爾を連れてイギリスに帰り、孤児院に賢爾を預けて行方不明になる。イギリスに探しにきた父に連れられて日本に戻り、日本の学校を出る。逓信省航空局委託機関学生に応募し一期生となり、朝日新聞社に入社する。朝日新聞航空部の専属機関士として飯沼とともに「神風号」で記録をたてる。昭和18年、ドイツへの戦時連絡飛行がキ77(立川飛行機等)によって計画される。その機関士として参加し、シンガポールを飛び立った後消息をたつ。


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来栖 三郎、妻はアメリカ人で親米英派であったが駐ドイツ特命全権大使としてベルリンで日独伊三国軍事同盟に調印。その後、特命全権大使としてアメリカ合衆国に派遣され、太平洋戦争直前の日米交渉にあたる。戦後GHQにより公職追放された。長男はハーフであったが日本陸軍航空隊のテストパイロットとなり活躍するが、味方の飛行機のプロペラに巻き込まれ死亡する。


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吉田茂は、「神風号」の飛行の時に駐英大使だった。イギリスではこの訪欧飛行を当初しぶっていたが、粘り強く交渉し、許可を取り付ける。吉田茂は戦後、総理大臣になる。


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2020年9月の連休に家族で旅行をした際、安曇野にある飯沼飛行士の記念館に立ち寄った。生家を改造してちょっとした博物館になっている。飯沼飛行士が自分の大叔父にあたるという方と女性スタッフの方から説明を聴く機会を得た。1月ほど前にスミソニアン博物館で飯沼飛行士を特集する冊子が出されたばかりで、いろいろと問い合わせがあり慌ただしくなっているということだった。

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多くの写真が飾られ、その写真ひとつひとつのエピソードを聞かせてもらったら一時間以上たってしまった。当時としては大快挙でリンドバーグに匹敵すると世界中に知られることになった。各国に招かれ、国賓扱いされたという。フランスからはレジオン・ド・ヌール勲章をもらっている。

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「神風号」のことを特集記事にしたスミソニアン博物館の冊子。日本のリンドバーグと書かれれいる。


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神風号・・・97式司令部偵察機
三菱重工で作られた大日本帝国陸軍の偵察機。神風号はその試作2号機。
高速でありながら長距離を飛べるという高性能であった。

「美貌なれ昭和」
深田祐介 著
文藝春秋  1983年10月30日


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